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恩田美栄
日本のフィギュアスケート選手 (1982-) ウィキペディアから
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恩田 美栄(おんだ よしえ、1982年12月13日[1] - )は、愛知県名古屋市出身で日本女子のフィギュアスケートコーチ。元プロフィギュアスケーター、元アマチュア・フィギュアスケート選手(女子シングル)。
主な競技実績に2002年ソルトレイクシティオリンピック女子シングル日本代表(17位)、2002年世界選手権5位。2002年ボフロスト杯・NHK杯各優勝、2002年全日本選手権・2005年四大陸選手権各2位など。
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人物
名古屋市立自由ヶ丘小学校[2]、名古屋市立千種台中学校[2]、東海女子高校、東海学園大学卒業。
東海学園大学の職員をしながら競技を続行し2006-2007シーズンをもって引退した。演技が終わった後の大きなガッツポーズと笑顔がファンに強い印象を残した[3]。現在は「スペリオール愛知FSC」でコーチ業に専念している。
高さのあるダイナミックなジャンプを武器としていた[4]。大学に入ってから3回転アクセルに取り組み始め[5]、競技での成功はなかったものの、ソルトレイクシティオリンピックのフリースケーティングでも挑戦した[6][7]。身体が固く柔軟性に乏しいため、スパイラルやスピンは苦手としていた[8]。
経歴
要約
視点
5歳でスケートを始め[9][10]、8歳のときグランプリ東海クラブに移り山田満知子コーチの指導を受けた[11][12]。1997-1998シーズンから1999-2000シーズンにかけて全日本ジュニア選手権で3年連続2位。世界ジュニア選手権にも1998年大会、1999年大会と2季連続で出場したが、1998年大会は公式練習中に疲労骨折して途中棄権した[13]。
ソルトレイクシティ五輪出場・17位
1999-2000シーズンの全日本選手権では4位止まりだったが、同シーズン初出場の四大陸選手権で5位となる。四大陸選手権で日本女子シングル代表としては村主章枝(4位)より下位だったものの、フリースケーティングの内容が評価され、1枠しかなかった世界フィギュア選手権代表の座を勝ち取る。恩田にとって初の出場だった2000年世界選手権では、総合12位に入った。
2000-2001シーズンの全日本選手権では自身初めての表彰台となる3位に入る。さらに四大陸選手権でも3位で銅メダルを獲得。但し四大陸選手権は村主が優勝し、また2001年世界選手権の日本女子代表は1枠のみのため、恩田の2年連続の世界選手権選出はならなかった。
2001-2002シーズン、ISUグランプリシリーズ(GPシリーズ)で2戦続けて2位となり、GPファイナルに初進出。同時にソルトレークシティオリンピック代表選出も内定した。しかしソルトレイクシティオリンピックのショートプログラムでは、コンビネーションジャンプの失敗が響き17位と大きく出遅れてしまう。フリースケーティングでも序盤でトリプルアクセルに挑むも転倒してしまい、他のジャンプはほぼ成功させたものの芸術点が伸びず、結局総合17位に終わった。
2002年世界選手権長野大会・5位入賞
しかし、2年ぶりに出場した自国・長野開催の2002年世界選手権では予選3位スタート、ショートプログラムでほぼ完璧な演技を披露し4位につける。最終者滑走だったフリースケーティングでは、3回転アクセルの着氷こそ失敗したものの、その後は大きなミスの無い演技でまとめて、結果総合5位入賞と健闘。もう1人の日本女子代表である村主が3位に入ったため、翌2003年世界選手権の女子シングル出場枠は、最大の3人に増えた。
2002-2003シーズンもGPシリーズではボフロスト杯・NHK杯で連続優勝するなど好成績を収め、GPファイナル進出も決めていた。全日本選手権では村主に次いで2位に入る。しかしその後、新調したスケート靴が足に合わずに足首などを故障してしまい、さらにケガの影響が長引いた為、四大陸選手権及び、GPファイナルの出場辞退を余儀なくされた(荒川静香が共に代替出場)[14]。2003年世界選手権で久々の競技会復帰となったが、総合11位にとどまった。
2004-2005シーズンから練習拠点をアメリカに移し、オードリー・ウェイシガーの指導を受ける[15][16][7]。4年連続でGPファイナルに進出する一方、全日本選手権では7位に沈んだ。2005年四大陸選手権では村主に次ぐ2位となった。
2005-2006シーズンからはカナダのトロントに練習拠点を移し、ジョゼ・シュイナールに師事した。全日本選手権では完璧な演技を披露し4位だったものの、トリノオリンピック出場を逃した。四大陸選手権代表に選出されたが「(故障などはないが)試合をやる気持ちになっていない」と辞退する。その後2006年世界選手権は、トリノ五輪金メダリストの荒川が辞退したため急遽繰り上がりで3年ぶりの代表選出となり、調整不足ながらも総合11位となった。
2006-2007シーズン、地元名古屋で行われた全日本選手権は5位に終わり、自国東京で開催の2007年世界選手権の代表入りは果たせなかった。2007年四大陸選手権の出場(6位)を最後に、2007年4月1日にアマチュアからの引退を表明した。
現役引退後
現役引退後は、プリンスアイスワールドを中心にプロスケーターとして活動した。2007年6月からは、モリコロパーク・アイスリンクを拠点に指導者としての活動も始めた。2008年5月に「スペリオール愛知FSC」を正式に立ち上げ、2009年からはコーチ業に専念した。今後は全日本選手権などキス・アンド・クライの座席に、コーチとして選手と共に座る事を目標にしている[17]。
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主な戦績
要約
視点
詳細
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プログラム
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メディア出演
- 第53回NHK紅白歌合戦(2002年12月31日、NHK総合・ラジオ第1) - ゲスト審査員
脚注
関連項目
外部リンク
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