トップQs
タイムライン
チャット
視点
新井毫
日本の教育者、政治家 (1858-1909) ウィキペディアから
Remove ads
新井 毫(あらい ごう、安政5年[1][2][3][4]11月10日[5][6]〈1858年12月14日〉 - 1902年〈明治35年〉11月24日/25日?)は、明治時代の民権運動家・政治家。衆議院議員(3期)、勢多郡会議員、黒保根村議会議員。国民協会所属[1][4]。
![]() | この記事は出典が示されていないカテゴリ「日清戦争のジャーナリスト」を含んでいます。 (2025年8月) |
Remove ads
生い立ち
安政5年(1858年)、上野国勢多郡下田沢村[4]字鹿角[7](群馬県[3]勢多郡黒保根村[1][2]を経て現・桐生市黒保根町下田沢)に、新井乙瓢(佐吉)の第四子[注釈 1]として生まれる[1][1][7][4]。初名は筆吉[1][2][4]。
明治5年(1872年)横浜に出て[1][2][4]英語を川村敬三とドクトル・ブラオンに学ぶ[7]。さらに慶應義塾や共慣義塾で勉学に励む[1][2][3][7][4][6]。卒業後の1876年(明治9年)、「英学校静知社」を創立し校長となる[1][2][7]。東京で雑誌『與論新誌』[1][2][7][4]や『東京政談』[2][3]を発刊し、「東京政談演説会」を主宰。
その後郷里に帰り、1880年(明治13年)2月[注釈 2]、大間々で藤生金六・野口与八・小林武平らと盡節社(じんせつしゃ)を設立して民権運動に取り組んだ[1][2][7][4]。その後、板垣退助に共鳴して封建政治を批判、国会開設運動に奔走した[6]。宮内大書記官・山岡鉄舟に嘆願書の受理を拒絶されたため山岡の私邸まで出向いて嘆願を行った[8][6]。
1882年(明治15年)作州(岡山県)津山六郡共立中学校校長となる[1][2][4]。黒保根村会議員[1][2][3][9][4]、勢多郡会議員[1][2][4]を経て農業を営む[3]。1887年(明治20年)12月の保安条例により東京を退去させられる[2][9]。
1890年(明治23年)第1回衆議院議員総選挙で初当選[1][2][3][10][4]。同年立憲自由党の結党により党員となる[10]。その後には国家主義思想をかかげ、国民協会に入党し、国会活動を展開した[2]。第2回総選挙では竹内鼎三に敗れるが[1][11][4]、第3回・第4回総選挙で当選し通算3期務めた[1][3][11][4]。第5回総選挙では落選し、以後の選挙では立候補していない[11]。
1902年(明治35年)11月、外国旅行の途上、瀬戸内海の船上で行方不明となる[12][6]。11月24日に播磨灘家島沖で入水したとも[13]、11月25日午前5時に香川県多度津港で落下事故死したとも[12]。最初の新聞報道では室内に遺書を記した手帳が残されていたため自殺とされたが、続報では訂正されている[12]。遺体は未発見[12]。
没年を1909年(明治42年)[1][2][3][4]あるいは1911年(明治44年)とする文献もあるが、1909年は失踪届が出された年、1911年は失踪宣告が確定した年なので正確ではない[12]。
Remove ads
顕彰
脚注
参考文献
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads