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有馬輝武
労働運動家、政治家、俳人 ウィキペディアから
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有馬 輝武(ありま てるたけ、1920年(大正9年)6月20日[1] - 2003年(平成15年)1月10日[1])は、昭和期の農林技官、労働運動家、政治家、俳人。衆議院議員(3期)。俳号・明彦(あきひこ)[1]。
経歴
後の鹿児島県西之表市出身[2]。海軍予備学生として出征し、海軍中尉で解員(復員)した<[3]。1946年(昭和21年)明治大学商学部を卒業した[1][3]。
復員後は鹿児島食糧事務所勤務で組合運動に従事し、同所の労働組合委員長となる[2]。全食糧労働組合の副委員長に就任するため1948年農林省食糧庁に転じ[2]、農林技官兼農林事務官に任官[3]。その後、全食糧労働組合中央執行副委員長、同中央執行委員長、全農林労働組合中央執行副委員長、同書記長、同中央執行委員長、鹿児島地方労働組合評議会事務局長などを務めた[1][3]。
1953年(昭和28年)4月の第26回衆議院議員総選挙で鹿児島県第3区から左派社会党公認で立候補したが落選[4]。1955年(昭和30年)2月の第27回総選挙に立候補し初当選[3][5]。次の第28回総選挙では次点で落選[5]。1960年(昭和35年)11月の第29回総選挙で再選され[5]、さらに第30回総選挙でも当選し[6]、衆議院議員に通算3期在任した[1][3]。この間、日本社会党文化委員会事務局長、同党政策審議会金融財政副委員長、同大蔵部会長などを務めた[3]。その後、第31回、第32回総選挙に立候補したがいずれも次点で落選した[6]。
その後、国際農友会理事、SPプロダクション会長、衆議院前議員会常任理事などを務めた[3]。また、学校法人嘉数女子学園の経営に参画し、1976年(昭和51年)4月から1977年(昭和52年)2月まで理事長に就任し、この間、沖縄女子短期大学学長代行も務めた[3][7]。
2003年(平成15年)1月10日午前2時11分、腎盂がんのため東京都文京区の病院で死去した[8]。82歳没。死没日付をもって従七位から従四位勲三等に叙され、旭日中綬章を追贈された[9]。
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著作
- 『月曜:句集』野火書房、1964年。
脚注
参考文献
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