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第32回衆議院議員総選挙
1969年に行われた日本の衆議院選挙 ウィキペディアから
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第32回衆議院議員総選挙(だい32かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)は、1969年(昭和44年)12月27日に日本で行われた国会(衆議院)議員の総選挙である。
初めて12月に行われたことから「師走選挙」(しわすせんきょ)とも呼ばれた。また、この選挙は土曜日に実施されたが、現在のところ衆議院総選挙が日曜日以外の曜日に実施されたのはこの選挙が最後となっている。
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概説
要約
視点
社会党・共産党は日米安保条約の自動更新阻止を掲げ、70年安保を争点にしようとした。安保闘争では全共闘や新左翼などの学生運動が展開され、機動隊と衝突した。
しかし選挙結果は、自民党の大勝と、社会党の一人負けであった。自民党は追加公認を含めると、300議席の大台に乗せた(前回比+20)。一方、社会党は90議席(前回比-51)で再統一以降では初めて100議席を割り込み、特に首都圏など都市部で壊滅的な惨敗を喫した。前回国会に初進出した公明党は議席を倍増(前回比+22)、共産党も第24回総選挙以来、20年ぶりに議席を2桁に乗せた。佐藤政権は続投を決め、1970年の安保条約自動更新も平穏に行われた。
自民党の得票数は横ばいだったが、社会党の得票数減がそのまま自民党を押し上げた形になった。
今次選挙の投票率が前回から大きく下落し、その下落幅が社会党候補の絶対得票率の下落にほぼ等しいこと、新聞各紙による社会党候補者の当選者数の予想の失敗などから、社会党の敗北は、投票所に行けば社会党に投票するはずであった有権者が、学生運動やプラハの春抑圧などで社会主義に幻滅を感じ棄権に回り、各選挙区で当落線上にあった社会党候補者の大部分が落選したためと推測されている。一方、共産党は新左翼と敵対していたことが選挙にはプラスになったといわれている。
従来、社会党は都市部で強かったが、この選挙で受けた打撃は二度と回復できなかった。代わって、公明党・共産党が進出し、総選挙の前月に民主社会党から改称した民社党も含め、都市部での野党の多党化傾向が顕著になった。自民党では、当時幹事長だった田中角栄が後に「田中軍団」を形成する事になる子飼いの新人議員を大量に当選させ、後の政局の主導権を握る上で大きな役割を果たすことになる。
1年前に小笠原諸島が復帰しており、小笠原諸島の有権者にとって初めての衆議院議員総選挙となった。
1970年には2年後の沖縄復帰を見込み、沖縄住民の国政参加特別措置法により沖縄県全県区で国政参加選挙が実施されている。
この総選挙では、後に総理大臣を務める羽田孜、森喜朗を筆頭に、浜田幸一、小沢一郎、梶山静六、土井たか子、不破哲三その他、後の政界のキーパーソンとなる人物が多数初当選し、その多士済々振りから、俗に「花の昭和44年組」と呼ばれる[注釈 2]。後に総理大臣を務める小泉純一郎も亡父・純也の地盤を継いで初めて立候補したが、落選している(1972年の総選挙で初当選)。
政見放送の開始
今回の総選挙では、テレビにおける政見放送が初めて行われた。これは第61回通常国会(1968年12月27日~69年8月5日)で成立した改正公職選挙法の第150条に基づいて実施されたものである。政見放送はテレビで4回、ラジオでは2回を放送し、NHKと民放でそれぞれ半分ずつを受け持った(ただし電力消費が大きい関東と近畿、中京地域ではテレビが2回、ラジオが4回となった)[1]。
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選挙データ
内閣
解散日
解散名
- 沖縄解散
公示日
投票日
改選数
- 486
選挙制度
- 投票方法
- 秘密投票、単記投票、1票制
- 選挙権
- 満20歳以上の日本国民
- 被選挙権
- 満25歳以上の日本国民
- 有権者数
- 69,260,424(男性:33,461,344 女性:35,799,080)
同日実施の選挙等
- 国民投票
選挙活動
党派別立候補者数
選挙結果
党派別獲得議席
- 投票率:68.51%(前回比:
5.48%)
- 【男性:67.85%(前回比:
6.90%) 女性:69.12%(前回比:
4.16%)】
党派別当選者内訳
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政党
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議員
要約
視点
当選者
自民党 社会党 民社党 公明党 共産党 無所属
沖縄国政参加選挙当選者
- 沖縄・国政参加特別措置法による衆議院議員選挙
- 1970年(昭和45年)11月15日執行
自民党 社会党 沖縄社会大衆党 沖縄人民党
補欠当選等
初当選
- 94名
- この総選挙では、後に総理大臣となる羽田孜と森喜朗を筆頭に、自民党から政権を2度交代させた立役者の小沢一郎(自民党が結党以来与党から下野したのはこの2回である)、1989年に野党第一党党首を務め参議院から内閣首班指名を受けた土井たか子(小沢は民主党時代の2007年に参議院第一党党首になっているため、小沢もこれに該当する)、日本共産党委員長を通算16年半務めた不破哲三、竹下派七奉行のうちの5人(小沢、羽田、梶山静六、奥田敬和、渡部恒三)、社会党のプリンスと言われた横路孝弘、その他に梶山静六、綿貫民輔、浜田幸一、竹下派七奉行のうち小沢、羽田、奥田、渡部に加え石井一は後の民主党の重鎮になるなど後の政界のキーパーソンとなる人物が多数当選し、その多士済々振りから、俗に「花の昭和44年組」と呼ばれる。先述のメンバーに加え、その子息もまた多選、あるいは大物政治家になった例(羽田孜の長男の羽田雄一郎・次男の羽田次郎、梶山静六の長男の梶山弘志、小此木彦三郎の三男の小此木八郎、浜田幸一の長男の浜田靖一、塩崎潤と長男の塩崎恭久、林義郎の長男の林芳正、江藤隆美の長男の江藤拓、松本十郎の長男の松本剛明、中山正暉の長男の中山泰秀、左藤恵の娘婿の左藤章など)も多数存在する。無所属当選のうち、合沢栄(民社党に追加公認)と中村拓道以外は当選後追加公認で自民党に所属している。
- 自由民主党
- 33名
- 日本社会党
- 11名
- 公明党
- 23名
- 民社党
- 6名
- 日本共産党
- 8名
- 無所属
- 13名
返り咲き・復帰
- 計30名
- 自由民主党
- 14名
- 日本社会党
- 10名
- 民社党
- 3名
- 日本共産党
- 2名
- 無所属
- 1名
引退・不出馬
- 計26名
- 自由民主党
- 11名
- 日本社会党
- 15名
落選
- 計80名
- 自由民主党
- 19名
- 日本社会党
- 50名
- 公明党
- 1名
- 民社党
- 9名
- 諸派
- 1名
記録的当選・落選者
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選挙後
国会
- 衆議院議長選挙(1970年1月14日 投票者数:474 過半数:238)
- 衆議院副議長選挙(1970年1月14日 投票者数:481 過半数:241)
- 内閣総理大臣指名選挙(1970年1月14日)
- 衆議院議決(投票者数:481 過半数:241)
- 衆議院副議長選挙(1972年1月29日 投票者数:417 過半数:209)
- 内閣総理大臣指名選挙(1972年7月6日)
政党
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脚注
関連項目
参考文献
外部リンク
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