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木村武山
1876-1942, 明治 ~昭和初期の日本画家 ウィキペディアから
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木村 武山(きむら ぶざん、明治9年(1876年)7月3日 - 昭和17年(1942年)11月29日)は、明治から昭和初期の日本画家。横山大観、下村観山、菱田春草らと共に、岡倉覚三(天心)のもとで日本画の近代化に努めた。

伝記
明治9年(1876年)7月、茨城県笠間市に木村信義の長男・信太郎として誕生。父は元笠間藩士で、廃藩後に笠間銀行(現・常陽銀行)を設立し頭取となり、明治45年(1912年)4月には笠間電気株式会社の設立と共に社長に就任している[1]。2歳の頃から地元の南画家・桜井華陵に師事。12歳頃には「武山」の号を用いており、この号は笠間のシンボルとも言える佐白山・山上の別称「阿武山(おたけ)」に由来する命名される。明治23年(1890年)、地元の西茨城連合高等小学校を卒業後に上京、東京開成中学校に入学するが、翌年、東京美術学校普通科に編入する。ここで同校教授の下村観山の強い影響を受け、以後画家としての人生を観山と共に歩むことになる。またこの頃、川端玉章の画塾・天真社で学ぶ。
明治29年(1896年)9月に卒業後も同校に留まり、日本画研究科へ進む。同年、日本絵画協会第一回展に「貫定卿旧都観月」で二等褒状を受ける。明治30年(1897年)2月には平泉中尊寺金色堂修復に助手として参加。翌年10月に創立された日本美術院に参加、最初は副員だったがのち正員となる。同年12月一年志願兵として近衛歩兵第1連隊に入隊している。明治35年(1902年)頃から先輩の下村観山との強い絆が生まれたようで、谷中初音町の八軒家に観山や大観と共に住み、朦朧体への批判で世評が厳しくなった美術院を支える中心作家としての立場が明快になっていく。明治37年(1904年)2月に起こる日露戦争ではかつての近衛歩兵第1連隊に応召され、7月陸軍歩兵中尉に任官し、8月には従七位に叙位される。
明治39年(1906年)、観山の推挙により岡倉らの五浦移転に、一家をあげて同行する。武山の代表作の多くはこの五浦時代に描かれており、後半期の画業の主流となる仏画も並行して描き始めた。大正3年(1914年)、大観・観山らと共に日本美術院を再興、経営者、評議員、同人の三役を兼ね、以後中心的存在として院の経営に尽力した。昭和12年(1937年)、脳内出血で倒れ郷里・笠間で静養、病で右手の自由が利かなくなったため左手で絵筆を執り、「左武山」の異名をとる。昭和17年(1942年)、喘息のため死去。法名は泰霊院映誉広彩武山居士。墓所は木村家の菩提寺である笠間市の月崇寺のほか、自邸内の大日堂に分骨された。
作品初期は歴史画が多く、25歳頃から主に花鳥画を描く。大正初期は琳派の手法を用いた壮麗な作風が特徴的である。1916年(大正5年)、笹川臨風と共に大和・河内巡りをした際、観心寺の如意輪観音坐像に驚嘆したのを切っ掛けに、後年は仏画を多く描いた。優れた色彩感覚を持ち、日本美術院きってのカラリストと評された。
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家族・親族
- 父の木村信義(1844-)は元笠間藩士で笠間銀行頭取、笠間電気社長[2]。同藩士・高橋義武の二男に生まれ、木村信親の養子となり家を継いだ[2]。江尻箕山より漢学、佐藤与之助より蘭学を学び、槍術馬術を修め、1864年に大阪城代となった藩主・牧野貞直に従って在阪し、戊辰戦争を経て明治維新後、笠間藩民政会計の監事となる[2]。廃藩置県後は藩の事務引総主任、経産主任、地方森林会河川法調査県是調査委員などを務めた[2]。
- 妻のけい(1879年生)は彫刻家・石川光明の二女。恒(長女、1903年生)、秋子(二女、1905年生)、武夫(長男、1908年生)、小春(三女、1909年生)、義(四女、1912年生)、信夫(三男、1913年生)らを産んだ。
- 後妻の雪(1900年生)は京都の礒田昇平妹であり、武山とは26歳離れている[3]。
- 甥・深作欣二 ‐ 妹・まつの子[2]。その親戚に深作安文、深作清次郎らがいる。
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代表作品
- 小春(左隻)
- 小春(右隻)
- 羽衣(左隻)
- 羽衣(右隻)
- 阿房劫火
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脚注
参考資料
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