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本田拓也
日本のサッカー選手 ウィキペディアから
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本田 拓也(ほんだ たくや、1985年4月17日 - )は、神奈川県津久井郡津久井町(現・相模原市緑区)出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。 現役時代のポジションは守備的MF(ボランチ)/アンカー。元日本代表。
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来歴
プロ入り前
3歳の頃、幼稚園のサッカースクールに加入しサッカーを始める。小学生、中学生時は地元のクラブチーム・FCコラソンでプレー。その後、サッカーの名門桐光学園高へ進学。卒業時にはJ2クラブからのオファーもあったが、高校2年時に足を骨折しプレーに自信がなくなっていたことなどから大学へ進学して実力をつける道を選ぶ。法政大学では、恩師の川勝良一や水沼貴史の下で、フィジカルの強化と、以前から得意としていたロングボールに加え短いパスも身に付けるなどサッカーセンスを磨く。2006年、大学3年時に初めて五輪代表に選出される。
清水エスパルス時代
2008年、Jリーグ・清水エスパルスへ入団。数クラブからのオファーがあった中で清水を選んだ理由は、最初に声をかけてくれたことと、在学中練習に参加させてもらったところチーム内の雰囲気がとてもよかったことだと語っている。また、高校の2年先輩である藤本淳吾がいたのも大きかったという[1]。同年3月、Jリーグ2008年シーズン開幕を先発出場で飾る。同年8月、U-23日本代表メンバーとして北京オリンピックへ出場。清水ではアンカーとして定着した。
2010年、清水での活躍が認められ、アルベルト・ザッケローニ監督就任後に日本代表に選出され、2011年のAFCアジアカップ2011カタール大会のグループリーグ第三戦の対サウジアラビア戦に途中出場し、代表初出場を果たした。
鹿島アントラーズ時代
2011年、鹿島アントラーズへ完全移籍[2]。増田誓志らとの激しいポジション争いが予想されたが、3月下旬の代表合宿中に負傷。当初は捻挫と診断されたが、合併傷害で一部軟骨がかけてはがれる右距骨軟骨損傷を発症してしまい同年8月に手術[3]、シーズンのほとんどをリハビリに費やすこととなってしまった。
清水エスパルス時代(第2次)
2013年7月24日、2年半ぶりに清水へ完全移籍での復帰を発表[4]。
2014年10月、チームが残留争いに置かれている中で、監督の大榎克己や主将の杉山浩太の推薦もあり[5]、副主将に就任[6]。
モンテディオ山形時代
2017年シーズンから出場機会を求めて山形へ完全移籍。新加入にもかかわらず、いきなり主将を任せられた[7]。2020年12月7日、契約満了による退団が発表された[8]。シーズン終了後にJリーグ合同トライアウトに参加した[9]。
FC岐阜時代
現役引退後
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所属クラブ
- FCコラソン
- 津久井町立中央小学校(現・相模原市立津久井中央小学校)
- 津久井町立(現・相模原市立)中野中学校在籍時
- 桐光学園高校
- 法政大学体育会サッカー部
- 2006年
清水エスパルス (特別指定選手)
- 2006年
- 2008年 - 2010年
清水エスパルス
- 2011年 - 2013年7月
鹿島アントラーズ
- 2013年7月 - 2016年
清水エスパルス
- 2017年 - 2020年
モンテディオ山形
- 2021年 - 2022年
FC岐阜
個人成績
- 2006年は特別指定選手としての出場は無し
タイトル
クラブ
- ヤマザキナビスコカップ:2回 (2011年, 2012年)
- スルガ銀行チャンピオンシップ:1回 (2012年)
代表
- 2011年 AFCアジアカップ2011
その他
- 2003年 第58回国民体育大会 (神奈川県選抜)
代表歴
- U-16日本代表
- U-17日本代表
- U-21日本代表
- U-22日本代表
- 2006年8月7日 日中韓サッカーU-21代表交流戦 U-21中国代表戦(秦皇島オリンピックスタジアム)出場
- 2006年 北京オリンピックアジア二次予選・最終予選出場
- U-23日本代表 北京オリンピック出場 (グループリーグ敗退)
- 日本代表
- 2011年 AFCアジアカップ2011出場
試合数
- 国際Aマッチ 2試合 0得点(2011年)
出場
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指導歴
脚注
関連項目
外部リンク
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