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榊田敬二

1900-?, 俳優。 ウィキペディアから

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榊田 敬二さかきだ けいじ[1]1900年明治33年〉1月15日[2][3][4] - 没年不詳は、日本の俳優[5][6][7][8][9]。本名・旧芸名は榊田 敬治(読み同じ)[5][7]。おもに現代劇に出演し、戦後は東宝特撮に多く出演[7][9]

概要 さかきだ けいじ 榊田 敬二, 本名 ...

人物・来歴

1900年明治33年)1月15日秋田県[3]仙北郡大曲町[注釈 1]に生まれる[5][7]

東京に移り、旧制・赤坂中学校(現在の日本大学第三高等学校)を卒業後、1921年(大正10年)10月、高田馬場に撮影所を持つ小松商会に入社し、『熱火の狼』に出演し、満21歳で映画界にデビューした[5][2][10]。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の後、京都に移り、日活大将軍撮影所に入社、1924年(大正13年)7月4日に公開された三枝源次郎監督の『民族の黎明』に出演している[5]。同撮影所での出演記録は不明であるが、1926年(大正15年)早々までには東京に移り、高松豊次郎タカマツ・アズマプロダクションの作品に出演。同年1月22日に公開された山本嘉次郎および横田豊秋(のちの俳優宇留木浩)の共同監督による『男児一諾』に出演しているが、同作の製作は「マキノ・プロダクション東京撮影所」(マキノ東京派)、実体は「タカマツ・アズマプロダクション」である。1927年(昭和2年)秋には京都に戻り、日活大将軍撮影所で脇役を務めている。

1930年(昭和5年)、太秦撮影所を使用していた帝国キネマ演芸に移籍し、同年11月20日に公開された高見貞衛監督の『素晴らしい奴』などに出演したが、同社は翌1931年(昭和6年)8月28日に新興キネマに改組されたため、榊田は、この新会社に継続入社する[5]。1935年(昭和10年)12月末、太秦帷子ヶ辻中開町(現在の右京区太秦堀ヶ内町)に、牧野省三の長男であるマキノ正博トーキーのための新しい撮影所を建設した新会社、マキノトーキー製作所を設立、これに参加する[11]。同社は1937年(昭和12年)4月に解散するが、榊田は前年中に東京に移り、P.C.L.映画製作所に参加、1937年(昭和12年)9月10日に合併して設立された東宝映画に継続入社[5][10]。これを機に従来本名を用いていたが、芸名を「榊田 敬二」とする[5][10]

第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)8月15日以降も、東宝争議以降も、東宝に所属し、多くの作品に出演を続けた[5]。満62歳を迎えた1962年(昭和37年) - 1965年(昭和40年)の間は、ペースをダウンして休業した[5]。満68歳を迎え、1968年(昭和43年)6月8日に公開された森谷司郎監督の『』を最後に引退したが[5]、1975年(昭和50年)3月15日に公開された本多猪四郎監督の『メカゴジラの逆襲』まで、端役で出演した。

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エピソード

東宝の俳優であった加藤茂雄よれば、榊田はタバコを自分で買わず、秋田弁で「タンバコくれ」と言って貰いタバコをしていたといい、仲間内では「タンバコくれ」とあだ名されていたが、本人は気にもとめていなかったという[10]。一方で、役者としては黒澤明が使い所を心得て大変な役どころにあてていたと評している[10]

フィルモグラフィ

要約
視点

すべてクレジットは「出演」である[6][7][8][9]東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵などの上映用プリントの現存状況についても記す[11][12]。同センターなどに所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。

初期

タカマツ・アズマプロダクション

特筆以外はすべて製作・配給はタカマツ・アズマプロダクションである。

  • 男児一諾 : 監督山本嘉次郎横田豊秋、製作マキノ・プロダクション東京撮影所、配給マキノ・プロダクション、1926年1月22日公開 - 執事大野
  • 燃ゆる情魂 前篇 : 監督友成用三、1926年2月19日公開 - 執事
  • 燃ゆる情魂 後篇 : 監督友成用三、1926年2月26日公開 - 執事
  • 母に誓ひて : 監督山本嘉次郎、1926年4月3日公開 - 秋田のベン(乾分)
  • 銅銭会事変 : 監督横田豊秋、1926年7月1日公開 - 用人
  • 黄門漫遊記 : 監督高松操、1926年10月3日公開 - 渥美格之進
  • マツダ映画小品集 「雲」 : 監督山本嘉次郎、1926年製作・公開 - 泥棒
  • 陽炎の舞 : 監督友成用三、1927年製作・公開 - 探偵狂

日活大将軍撮影所

すべて製作は日活太秦撮影所、配給は日活である[8]

  • 『喧嘩』 : 監督東坊城恭長、1927年11月25日公開 - 洋食屋の勝助
  • 沈み行く人魚 : 監督畑本秋一、1928年6月8日公開 - 若い紳士
  • 奮戦王 : 監督浅岡信夫、1928年12月31日公開 - 正木製薬社員
  • 生ける人形 : 監督内田吐夢、1929年4月19日公開

帝国キネマ演芸

すべて製作・配給は帝国キネマ演芸である。すべて「榊田敬治」名義である。

  • 野獣群 : 監督木村恵吾、1930年9月15日公開[5]
  • 素晴らしい奴 : 監督高見貞衛、1930年11月20日公開
  • 我が子我が母 : 監督民門敏雄、1931年4月22日公開[5]
  • 都会病患者 : 監督木村荘十二、1931年6月3日公開[5]

新興キネマ

特筆以外すべて製作・配給は新興キネマである。すべて「榊田敬治」名義である。

新興キネマ
  • 最後の審判 : 監督印南弘、1931年10月4日公開 - 木村訓導
  • ガラマサどん : 監督木村恵吾、1931年11月5日公開 - 松本
  • 噂の女 : 監督木村恵吾、1931年12月19日公開 - 写真師
  • 『姉』 : 監督高見貞衛、1931年12月24日公開 - 佐藤家の使用人
  • 丸の内五人女 : 監督曾根純三、1931年12月31日公開 - 社会部長
  • 鉄の花環 前篇 暴風を呼ぶもの : 監督曾根純三、1932年1月14日公開 - 松雄
  • 鉄の花環 後篇 相寄る魂 : 監督曾根純三、1932年2月4日公開 - 松雄
  • 満州行進曲 : 監督川浪良太、1932年3月3日公開 - 志戸一等兵
  • エンコの六 : 監督曾根純三、1932年3月24日公開 - イデオロギーの鉄
  • 満州娘 : 監督渡辺新太郎、1932年6月10日公開 - 相沢静夫
  • 姿なき怪盗 前篇 : 監督曾根純三、1932年9月22日公開 - 尾形稔
  • 満蒙建国の黎明 : 監督溝口健二、製作入江プロダクション中野プロダクション・新興キネマ、配給新興キネマ、1932年9月29日公開 - 李石常
  • 太陽の娘 : 監督渡辺新太郎、1932年10月6日公開 - 事務員・林
  • 姿なき怪盗 後篇 : 監督曾根純三、1932年11月17日公開 - 尾形稔
  • よみがえる暁 : 監督渡辺新太郎、1932年12月1日公開 - 文士水上
  • 街の青空 : 監督木村恵吾、1933年2月3日公開 - 尾形の乾分
  • 間貫一 : 監督木村恵吾、1933年5月11日公開 - 運転手
  • 『紙芝居』 : 監督寿々喜多呂九平、1933年5月21日公開 - 武
  • ゴトク倶楽部 : 監督上野信二郎、1933年10月8日公開 - 甚太の父
  • 『やどり木』 : 監督寿々喜多呂九平、1933年12月27日公開 - 国井彦弥
  • 愛のゴーストップ : 監督上野信二郎、1934年2月8日公開 - 風野
  • 心の波止場 : 監督阿部豊、1934年2月15日公開 - 岩田老人
  • 河の上の太陽 : 監督内田吐夢、1934年5月17日公開
  • 牧場の兄弟 : 監督木村恵吾、1934年5月31日公開 - 巡査
  • 男の掟 : 監督田中重雄、1934年7月14日公開 - お美津の伯父
  • 前科もの二人女 : 監督石田民三、1934年7月31日公開 - 望月輝太郎
  • 巨人街 : 監督田中重雄、1934年9月13日公開 - 小林先生
  • 子を持つ処女 : 監督上野真嗣、1934年11月8日公開 - 周平
新興キネマ東京撮影所
  • 春姿娘道中 : 監督東坊城恭長、製作新興キネマ京都撮影所、配給新興キネマ、1935年1月10日公開 - 赤尾先生
  • 『釣鐘草』 : 監督川手二郎、1935年4月3日公開 - 美津子の伯父
  • ヒュッテの一夜 : 監督落合吉人西鉄平、製作新興キネマ京都撮影所、配給新興キネマ、1935年4月11日公開 - 信次の父
  • 女の友情 : 監督村田実、1935年4月18日公開 - 近藤博士
  • 自活する女 : 監督青山三郎、1935年5月30日公開 - 商事会社社長・芳原伝蔵
  • 女流探訪記者 : 監督久松静児、1935年10月3日公開 - 符老人
  • 突破無電 : 監督村田実、製作高田プロダクション(高田稔)、配給新興キネマ、1935年10月15日公開 - 藤丸船長

マキノトーキー製作所

特筆以外すべて製作は「マキノトーキー製作所」、配給は「千鳥興行」である。すべて「榊田敬治」名義である。

  • 無鉄砲選手 : 監督根岸東一郎、1935年製作・公開 - 巡査部長、15分の部分が現存(NFC所蔵[11]
  • 涯てなき航路 : 監督田丸重雄、1936年製作・公開
  • 鋪道の囁き』(戦後公開題『思い出の東京』) : 監督鈴木傳明、製作加賀ブラザースプロダクション(加賀四郎)、1936年製作、1946年6月27日公開 - 新聞記者B、84分尺で現存(NFC所蔵[11]

P.C.L.映画製作所

すべて製作は「P.C.L.映画製作所」、配給は「東宝映画」である。すべて「榊田敬治」名義である。

東宝映画東京撮影所

特筆以外すべて製作は「東宝映画東京撮影所」、配給は「東宝映画」である[9]。特筆以外すべて「榊田敬二」名義である[9]

  • たそがれの湖 : 監督伏水修、「榊田敬治」名義、1937年12月21日公開 - 昆虫博士(生物家者)
  • 阿部一族 : 監督熊谷久虎、製作東宝映画東京撮影所・前進座、配給東宝映画、「榊田敬治」名義、1938年3月1日公開 - 家老、105分尺で現存(NFC所蔵[11]
  • 巨人伝 : 監督伊丹万作、1938年4月11日公開 - 寺男、127分尺で現存(NFC所蔵[12]
  • 鶴八鶴次郎 : 監督成瀬巳喜男、「榊田敬治」名義、1938年9月29日公開 - 観客、88分尺で現存(NFC所蔵[11]
  •  : 監督豊田四郎、製作東京発声映画製作所、配給東宝映画、「榊田敬治」名義、1938年11月9日公開 - 出札係、71分尺で現存(NFC所蔵[11]
  • 武道千一夜 : 監督滝沢英輔、1938年12月11日公開 - 書役宇兵衛
  • 浪人吹雪 : 監督近藤勝彦、1939年1月11日公開[5]
  • 美はしき出発 : 監督山本薩夫、1939年2月21日公開[5]
  • 娘の願は唯一つ』(『娘の願ひは唯一つ』) : 監督斎藤寅次郎、1939年3月14日公開、36分尺で現存(NFC所蔵[11]
  • 忠臣蔵 前篇 : 監督滝沢英輔、1939年4月21日公開 - 月岡治左衛門
  • 忠臣蔵 後篇 : 監督山本嘉次郎、1939年4月21日公開 - 月岡治左衛門
  • 上海陸戦隊 : 監督熊谷久虎、1939年5月20日公開 - 池田
  • 白蘭の歌 前篇 : 監督渡辺邦男、1939年11月30日公開 - 移民村団長
  • 白蘭の歌 後篇 : 監督渡辺邦男、1939年11月30日公開 - 移民村団長
  • 金語楼の親爺三重奏 : 監督小国英雄、1939年12月13日公開 - 馬子
  • 化粧雪 : 監督石田民三、1940年2月14日公開 - 守衛、75分尺で現存(NFC所蔵[11]
  • 蛇姫様 : 監督衣笠貞之助、1940年4月3日公開 - 清兵衛、127分尺で現存(NFC所蔵[12]
  • 『釣鐘草』(『乙女シリーズその二 花物語 釣鐘草』) : 監督石田民三、1940年7月2日公開 - 役名不明、36分・53分尺で現存(NFC所蔵[11]
  • 続蛇姫様 : 監督衣笠貞之助、1940年8月14日公開 - 清兵衛
  • 旅役者 : 監督成瀬巳喜男、製作東宝映画京都撮影所、配給東宝映画、1940年12月18日公開 - 百姓、70分尺で現存(NFC所蔵[11]
  • 親子鯨 : 監督斎藤寅次郎、製作東宝映画京都撮影所、京都撮影所、配給東宝映画、1940年12月18日公開 - 小使、75分尺で現存(NFC所蔵[11]
  • なつかしの顔 : 監督成瀬巳喜男、製作東宝映画京都撮影所、配給東宝映画、1941年1月22日公開 - 馬方
  • 暁の進発 : 監督中川信夫、製作東宝映画京都撮影所、配給東宝映画、1941年1月24日公開 - 北村上等兵
  • 子宝夫婦 : 監督斎藤寅次郎、1941年2月26日公開 - 職工A
  •  : 監督山本嘉次郎、製作東宝映画東京撮影所・映画科学研究所、配給東宝映画、1941年3月11日公開 - 組合の事務員
  • 人生は六十一から : 監督斎藤寅次郎、製作東宝映画東京撮影所・吉本興業、配給東宝映画、1941年4月22日公開 - 無料宿泊所管理人
  • 白鷺 : 監督島津保次郎、1941年5月1日公開 - 紳士、99分尺で現存(NFC所蔵[12]
  • 雲月の妹の歌 : 監督石田民三、1941年5月14日公開 - 小使、85分尺で現存(NFC所蔵[11]
  • 秀子の車掌さん : 監督成瀬巳喜男、製作南旺映画、配給東宝映画、1941年9月17日公開 - バス会社の客、51分尺で現存(NFC所蔵[11]
  • 指導物語 : 監督熊谷久虎、1941年10月4日公開 - 田舎駅の助役、111分尺で現存(NFC所蔵[11]
  • 八十八年目の太陽 : 監督滝沢英輔、1941年11月15日公開 - 造船部長、101分尺で現存(NFC所蔵[12]
  • 若い先生 : 監督佐藤武、1942年3月20日公開 - 父親
映画配給社配給
  • 『水滸伝』 : 監督岡田敬、配給映画配給社、1942年7月2日公開 - 杜遷
  • 母は死なず : 監督成瀬巳喜男、配給映画配給社、1942年9月24日公開 - 職業紹介所係員、61分尺で現存(NFC所蔵[12]
  • ハワイ・マレー沖海戦 : 監督山本嘉次郎、配給映画配給社、1942年12月3日公開 - 郵便集配人[13](老郵便配達)、116分尺で現存(NFC所蔵[12]
  • 伊那の勘太郎』(改題『伊那節仁義』) : 監督滝沢英輔、配給映画配給社、1943年1月3日公開 - 浪人、67分尺で現存(NFC所蔵[12]
  • 愛の世界 山猫とみの話 : 監督青柳信雄、配給映画配給社、1943年1月14日公開 - 村人石松

東宝

特筆以外すべて製作・配給は東宝である[9]。特筆以外すべて「榊田敬二」名義である[9]

テレビドラマ

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脚注

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参考文献

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外部リンク

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