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森谷司郎
映画監督 ウィキペディアから
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森谷 司郎(もりたに しろう、1931年(昭和6年)9月28日[1] - 1984年(昭和59年)12月2日)は、日本の映画監督。
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概歴
東京市四谷区番衆町(現・東京都新宿区新宿)出身[1]。1937年に台湾に転居し、中学2年生の時に終戦とともに岡山県へ引き上げる[1]。岡山県第一岡山中学校から岡山県立岡山朝日高等学校を経て、1955年に早稲田大学第一文学部仏文科卒業[1]。卒業後はジャーナリストを志望していたが[要出典]、東宝の助監督試験に合格し入社する[1]。同期には恩地日出夫、木下亮。成瀬巳喜男・黒澤明の作品で助監督を務める[1]。監督昇進まで10年以上、助監督を経験し1966年に加山雄三主演『ゼロ・ファイター 大空戦』で、監督デビューを飾る[1][2]。
5本の黒澤映画でチーフ助監督をつとめた唯一の人物であり、師ゆずりの完璧主義で次第に評価を高め、1970年代に2本の大作映画『日本沈没』と『八甲田山』が記録的な大ヒットとなる。『八甲田山』の撮影は映画史上類を見ない過酷さだったと言われ、裸で死ぬ兵士の肌が紫がかって見えるのはメイクでなく、本当の凍傷であった。この過酷な撮影に耐え切れず、脱走した俳優もいたという[3]。その大作を粘り強くまとめあげる手腕をして、『キネマ旬報』誌上で「日本映画界の四番バッター」と書かれるほどの存在となった[要出典]。しかし、その後はこれを上回るヒットや評価を得ることはできなかった。立花隆の原作の映画『宇宙からの帰還』[注 1]の準備中に胃癌で倒れ、1984年12月2日に、53歳で死去した。
なお、黒澤映画の常連でもあった佐藤勝や、芥川也寸志といった巨匠作曲家たちとのコンビで大ヒットを飛ばした森谷だが、その後は一転して若い作曲家と組んだ作品が多い。このことについて、ベテランを信頼して下駄をあずける度量を森谷が失いつつあるのではないかとの憂慮を佐藤がコメントしたことがある。
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主な監督作品
助監督時代
監督時代
ドラマ
- 人魚亭異聞無法街の素浪人(1976年)
- 腐蝕の構造(1977年)
脚本作品
未制作作品
- 続日本沈没(1974年)
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受賞歴
脚注
出典・参考文献
外部リンク
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