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永作芳也
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永作 芳也(ながさく よしなり、1955年9月27日[2]- )は、元・将棋棋士[注釈 1]。棋士時代は加藤恵三八段門下であり、棋士番号は139であった[4][注釈 2]。茨城県行方郡麻生町(現・行方市)出身[2][5]。
経歴
- 将棋は小学校2,3年で覚えたが、プロを志したのは高校2年生になってからだった[4]。奨励会入会は18歳で6級と非常に遅いスタートであった[4][注釈 3]。1年余りで5級に昇級すると、その後2年で初段(入品)。初段・二段を半年あまりで通過して1977年11月に三段となる。三段では2年あまり指し、1979年10月3日に良い所取り13勝3敗で四段昇段を決めた[6]。
- 努力家で、いつも棋譜並べをしていたことから、奨励会の先輩からは半ば揶揄気味に「盤を耕す田吾作」と評されていた[4][7]。
- 四段昇段後の翌年の若獅子戦では、準決勝進出も大島映二に敗れる。順位戦C級2組では、1982年の41期に開幕から2連敗スタートながら8連勝し、10戦全勝の脇謙二と塚田泰明に次ぐ成績を上げるも、順位差で同星の児玉孝一に頭ハネを食らう。1位で開幕を迎えた42期は6勝4敗に終わり、1988年の引退まで順位戦C級2組の昇級に絡むことはなかった[8]。
- 1982年5月18日、オールスター勝ち抜き戦で谷川浩司と対局し、追い詰めるものの敗れる[9](谷川は6連勝で優勝)。同年には師匠の加藤恵三八段が死去している[8][9]。
- 1986年5月9日、棋聖戦1次予選3回戦で森下卓に勝利し、勝数規定により五段昇段[10][9]。
- 1987年度NHK杯テレビ将棋トーナメントで本戦出場を果たし、1回戦で羽生善治と対戦。熱戦の末敗れる[4][9]。
- 1988年3月31日付で日本将棋連盟を退会し[1]、棋士の身分を放棄した[4][注釈 4]。最終対局は小阪昇との順位戦C級2組の最終局で、これに勝利し3勝7敗で終えたが、順位差で降級点がつかず、降級点なしでの引退であった。当時は「名人になるため棋士となったが、自分の実力では名人になれないと悟ったので棋士を辞めた」と伝えられたが[16]、実際は理由はほかにもあり、将棋界以外にも興味があった旨を2017年の取材で答えている[5][9]。退会後、将棋界とは完全に連絡を絶ったため、奨励会同期でプロ入り後も親しくしていた小野修一が2008年に早逝していたことも2017年の取材で初めて知ったほどであった。
- 2017年現在は潮来市に住み、保険代理業を営んでいる[4]。2017年7月に、行方市内の公共施設で子供向けの将棋教室を開講した[17]。棋士を辞してから30年間、将棋と離れていたが、藤井聡太の活躍に触発されるところがあったためという[5][9]。2018年11月の時点では、行方市内の他に神栖市内などを加え、茨城県内の4か所で将棋教室を開いている[18]。
- 2018年11月1・2日に第31期竜王戦第3局が、永作の居住地からほど近い鹿島神宮で行われた際、2日目に関係者控室を訪れた[18]。対局前日(10月31日)の前夜祭にも顔を出し、旧知の仲である羽生(竜王)や中村修(対局立会人)らと久々に顔を合わせた[18]。
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昇段履歴
主な成績
在籍クラス
→竜王戦と順位戦のクラスについては「将棋棋士の在籍クラス」を参照
参考文献
関連項目
脚注
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