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塚田泰明

日本の将棋棋士 ウィキペディアから

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塚田 泰明(つかだ やすあき、1964年11月16日 - )は大内延介九段門下の将棋棋士。(棋士番号148)。東京都出身。1980年度(昭和55年度)にプロ入り(四段に昇段)した強豪グループ、いわゆる「55年組」の一人。

概要 塚田泰明 九段, 名前 ...

棋歴

プロ入り~A級昇級まで

  • 中学2年時の1978年に第32回アマ名人戦に出場し準優勝。同年11月に4級で奨励会に入会。そこからわずか2年4ヶ月後の1981年3月5日に四段に昇段するという記録的なスピードでのプロ入りを果たした。
  • 順位戦では参加2年目の第41期(1982年度)から好成績を連発し、当期C級2組順位戦を10戦全勝しC級1組へ昇級。翌第42期(1983年度)C級1組順位戦では8勝2敗で4位。第43期(1984年度)C級1組順位戦では10戦全勝でB級2組へ昇級。第44期(1985年度)B級2組順位戦では、トップと同星の8勝2敗で4位。第45期(1986年度)B級2組順位戦では、8勝2敗で2位となりB級1組へ昇級。そして、第46期(1987年度)B級1組順位戦では10勝2敗で1位となり、2年連続昇級でA級八段となる。
  • この間は順位戦以外においても目まぐるしい活躍を遂げ、若手の登竜門の棋戦でも3回優勝した。第2回(1983年度)早指し新鋭戦で棋戦初優勝(決勝の相手は高橋道雄)。同棋戦では4年後の第6回でも優勝(決勝の相手は森下卓)。新人王戦でも第17回(1986年度)で脇謙二との三番勝負を2連勝で制し優勝。
  • 1986年度に、相掛かりの先手番の超急戦戦法である「塚田スペシャル」を開発し、公式戦22連勝という前人未到の記録を樹立[注 1]するなど活躍した[注 2]。この連勝には、第17回新人王戦(前述)の準々決勝から決勝三番勝負までの白星の他、中原誠からの2勝、米長邦雄羽生善治森雞二からの1勝も含まれていた。尚、この連勝記録は、神谷広志が1987年2月から8月まで28連勝を達成したことによって半年程度で塗り替えられ、2022年3月現在は藤井聡太(29連勝)・神谷広志(28連勝)・丸山忠久(24連勝)に次ぐ歴代4位の記録となっている。

タイトル戦などでの活躍

  • 王将戦では第35期(1985年度)一次予選から勝ち抜き棋界屈指の難関とされる王将リーグ入り、4勝2敗で4位残留。翌第36期(1986年度)は5回戦で谷川浩司に負けただけの5勝1敗で中原誠とのプレーオフに進出(敗北しタイトル挑戦ならず)。第37期(1987年度)は前半で4連敗するなど振るわず2勝4敗で高橋道雄との残留決定戦に敗れリーグ陥落。
  • 1987年第35期王座戦でタイトル初挑戦。中原誠王座とのフルセットの戦いの末に3-2で奪取(1987年10月21日)。「55年組」の中で、高橋道雄中村修に次ぐ3人目のタイトルホルダーとなった[注 3]。塚田が中原の二冠の一角を崩したことにより、この時点で、7つのタイトルを7人の棋士が1つずつ持ち合うという、珍しい状態が発生した[注 4]。この年度は、A級昇級(前述)を決めた年度でもある。
1987年10月21日時点のタイトルホルダー
名人十段棋聖王位王座棋王王将
中原誠福崎文吾桐山清澄谷川浩司(中原誠)

塚田泰明
高橋道雄中村修
  • 第36期、王座の防衛戦では中原の返り討ちに遭い3連敗で防衛失敗、1期で王座のタイトルを失った。
  • 前期のリーグ成績不振により二次予選から出直しとなった第38期(1988年度)王将戦では即リーグ復帰も2勝4敗で陥落となった。
  • 棋聖戦では第53期(1988年度後期)から第56期(1990年度前期)まで4期連続でベスト4に進出。第56期では大山康晴島朗・高橋道雄を破り屋敷伸之との挑戦者決定戦に進出(敗北しタイトル挑戦ならず)。
  • 王座戦では失冠から2期後の第38期(1990年)でもベスト4に進出(準決勝で谷川浩司に敗北)。
  • 第41回NHK杯戦(1991年度)で森下卓郷田真隆・高橋道雄らを破り準優勝[注 5]
  • 第8回天王戦(1992年度)で羽生善治・南芳一らを破り準優勝[注 6]
  • 第61期棋聖戦(1992年度後期)棋聖戦でも2次予選を勝ち抜き本戦出場。本戦でも阿部隆・高橋道雄・南芳一を破り2度目の挑戦者決定戦進出(郷田真隆に敗北しタイトル挑戦ならず)。
  • 第44期王将戦(1994年度)で二次予選を勝ち抜き6期振りの王将リーグ入り(リーグは6回戦で有吉道夫に勝っただけの1勝5敗で陥落)。
  • 1997年第10期竜王戦で1組優勝(本戦では初戦3回戦で当期挑戦者となった真田圭一に敗退)。

九段昇段からフリークラス転出まで

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棋風

  • 攻め100%」「昇天流」といわれる豪快な攻めの棋風で知られる。その攻めは「塚田が攻めれば道理が引っ込む」と評されたほどである。
  • 電王戦での二つ名は「攻め十割の昇天流」。

人物

  • 左利きであり、左手で駒を持つ。
  • 妻は女流棋士高群佐知子、娘は女流棋士かつ弟子の塚田恵梨花。娘の恵梨花からみて両親が棋士と女流棋士というのは、将棋界初で唯一である[4]。恵梨花は2023年10月開始の第4期より女流順位戦A級に在籍しているが、父と娘が揃って順位戦(女流順位戦)A級在籍経験者となるのも将棋界初である。高群との結婚の前、二人で極秘に沖縄旅行に行ったが台風で久米島から帰れなくなり、テレビ収録の仕事を二人ともキャンセルした[5]。交際が公になっていなかったため二人は連盟に別々に連絡し、高群が電話で沖縄にいる旨を伝えた一方、塚田は沖縄と言うとバレてしまうので「いま南の島にいます」と電話したが、結局交際が発覚した。この一連の出来事は「南の島事件」と呼ばれ、棋界の人間を招いた結婚式でも披露された。
  • 師匠の大内にはNHKテレビテキスト将棋講座2012年5月号で「おしゃれな子だった」と入門時の第一印象を述べられていた。

弟子

棋士となった弟子

さらに見る 名前, 四段昇段日 ...

(2017年3月24日現在)

女流棋士となった弟子

さらに見る 名前, 女流2級昇級日 ...

(2023年7月3日現在)

対局・解説に関する逸話

  • 弟子の藤森哲也が、2011年10月1日付で四段に昇段。それから1年8ヶ月後に行われた第85期棋聖戦一次予選2回戦で藤森との「師弟対決」が実現、128手で後手の塚田が勝ち、師匠としての貫禄を示した。
  • 師匠の大内とは1985年から1999年まで延べ8回対戦し、3回“恩返し”を遂げた。
  • 2004年6月20日にNHK教育テレビ(現Eテレ)で放送された第54回NHK杯1回戦で豊川孝弘六段と田村康介五段(段位はいずれも当時)の対戦を解説。聞き手の女流棋士千葉涼子と大盤で今後の戦術を話していた最中、豊川が二歩の禁じ手を犯してしまった。塚田はその着手を確認するや否や「打っちゃったよ、打っちゃった」と困惑した口調で発言した。尚、当対局は「トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜」や「マツコ&有吉の怒り新党」という、将棋をテーマとしないテレビ番組でも取り上げられ、当該映像では塚田の声も確認できる。

昇段履歴

  • 1978年00月00日 : 4級 = 奨励会入会
  • 1979年00月00日 : 初段
  • 1981年03月05日 : 四段 = プロ入り
  • 1983年04月01日 : 五段(順位戦C級1組昇級)
  • 1985年04月01日 : 六段(順位戦B級2組昇級)
  • 1987年04月01日 : 七段(順位戦B級1組昇級)
  • 1988年04月01日 : 八段(順位戦A級昇級)
  • 2000年12月15日 : 九段(勝数規定/八段昇段後公式戦250勝)[6]

主な成績

要約
視点

獲得タイトル

他の棋士との比較は、タイトル獲得記録将棋のタイトル在位者一覧を参照。

タイトル 獲得年度 登場 獲得期数 連覇 備考
竜王 0
名人 0
叡王 0
王位 0
王座 1987 2回 1期
棋王 0
王将 0
棋聖 0
旧タイトル 獲得年度 登場 獲得期数 連覇 備考
十段 0
登場回数2、獲得合計1期
タイトル戦登場
  • 王座:2回(1987年度=第35期 - 1988年度)
登場回数 合計2回

一般棋戦優勝

優勝合計 3回

将棋大賞

  • 第13回(1985年度) 技能賞
  • 第14回(1986年度) 連勝賞・技能賞
  • 第15回(1987年度) 技能賞
  • 第42回(2014年度) 升田幸三賞特別賞(塚田スペシャル[7]

在籍クラス

さらに見る 開始 年度, (出典)順位戦出典 ...

年度別成績

さらに見る 年度, 対局数 ...

その他表彰

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著書

出演

ゲーム

  • 将棋風林火山(スーパーファミコン用ソフト、1993年10月発売、ポニーキャニオン)5名の連名で監修

脚注

関連項目

外部リンク

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