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池ノ内亮介

日本の元プロ野球選手 ウィキペディアから

池ノ内亮介
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池ノ内 亮介(いけのうち りょうすけ、1988年11月22日 - )は、日本の元警察官、元プロ野球選手投手)。右投右打。三重県伊賀市出身。

概要 基本情報, 国籍 ...
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経歴

要約
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プロ入り前

三重県伊賀市立中瀬小学校時代、1年生の頃に中瀬ヒュービーズに入部し野球を始める。同桃青中学校時代には伊賀ボーイズに所属し、遊撃手としてプレー。高校はプロ野球出身者も多い岐阜県にある中京高に進学。当時は、外野手兼控え投手であった。同期に高森勇気大抜亮祐がいた。中京学院大学に進学すると、本格的に投手に転向。チームでは二番手ながら先発の柱として活躍。中日ドラゴンズの二軍と対戦した際、直球だけで1イニングを無失点に抑えたこともあり、中日をはじめプロのスカウトも視察に訪れるようになる。

スピードのあるピッチングが評価されたことから、2011年の育成ドラフト会議で、広島東洋カープから2巡目で指名[1]育成選手として入団した。入団当初の背番号は「121」で、1993年に硬式野球部を創部した中京学院大の選手が(支配下登録選手を含めて)ドラフト会議でNPBの球団から指名されたのは初めての事例。東海地区大学野球岐阜学生リーグから直接ドラフトで指名されたのは、1993年埼玉西武ライオンズから2位で指名された後に、同球団と広島に所属した朝日大学山田潤以来、17年振りであった。

広島時代

2011年には、ウエスタン・リーグ公式戦1試合に登板。しかし、シーズン終盤から参加したフェニックスリーグでは、救援投手として9試合に登板した[1]

2012年には、前年のフェニックスリーグでの投球内容が評価されたことから、一軍の春季キャンプのメンバーに選ばれた。育成選手による一軍キャンプへの参加は、広島では初めてであった[2]。しかし、シーズン中には一軍公式戦への登板機会がなかった。

2013年には、シーズンを通じて四国アイランドリーグplus愛媛マンダリンパイレーツへ派遣されたが[3]、リーグ最多の72与四球、同2位の14与死球を記録する一方で、先発陣の一員として、小林憲幸とともにチーム最多の12勝を挙げた。広島復帰後の11月1日には、育成選手契約から支配下選手契約へ移行することが球団から発表[4]。この移行を機に、背番号を「68」に変更した[5]

2014年には、7月14日に入団後初めての出場選手登録。翌15日の対横浜DeNAベイスターズ戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)に中継ぎ投手として一軍デビューを果たすと、1回を無失点に抑えた。一軍公式戦全体でも2試合の登板で失点を喫しなかった。

2015年には一軍公式戦への登板機会がなく、10月1日に球団から戦力外通告を受けた。

広島退団後

2015年11月10日シートバッティング形式の12球団合同トライアウト草薙球場)へ参加した。しかし、対戦した打者3人から二塁打1本を含む2安打を浴びた[6]

引退後は株式会社トラバース(千葉市)を経て[7][8]2017年大阪府警察に入庁。大阪府警察学校卒業後、寝屋川警察署地域課巡査として勤務[9]

2024年、大阪府警察を退職[10]。同年、母校・中京学院大学硬式野球部のコーチに就任し、9年ぶりに野球界へ復帰した[10]

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選手としての特徴・人物

荒れ球ながら最速151km/hのストレートと130km/h台の高速スライダーを投げるなどスピードのあるピッチングが持ち味。

中京高校時代のチームメイトとして高森勇気(元横浜DeNA)や大抜亮祐(元巨人)がいた。大学の1年後輩には広島でも同僚となる菊池涼介がいる。

詳細情報

年度別投手成績

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記録

NPB投手記録

独立リーグでの投手成績

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背番号

  • 121 (2011年 - 2013年)
  • 68 (2014年 - 2015年)
  • 15 (2013年) ※愛媛マンダリンパイレーツでの背番号

脚注

関連項目

外部リンク

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