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渡会純男

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渡会 純男(わたらい すみお、1938年9月4日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手捕手)・コーチ

概要 基本情報, 国籍 ...
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来歴・人物

大分商業では同期のエース祓川正敏とバッテリーを組み、2年次の1955年には秋季九州大会県予選で決勝に進むが、日田高梅野慶志に完封を喫し敗退。その後も県予選で敗れ甲子園には出場できず、卒業後の1957年、祓川と共に南海ホークスへ入団。野村克也の控え捕手として起用され、1960年には7試合に先発マスクを被る。1966年西鉄ライオンズへ移籍し、同年の最終戦で捕手として先発するが、その後は引退まで捕手としての守備機会はなかった。1967年5月7日の南海戦(平和台)に池永正明の代打で登場し、スリーバントを成功させて以降の試合は全て偵察出場となり、1968年に南海へ二軍サブコーチ兼任で復帰。ここでもブルペン捕手、偵察要員として起用される。当時から「カラスが鳴かない日があっても、渡会が練習を休むのを見たことはない」というほどの練習の虫であり、試合中はヤジ将軍として知られ、試合で負けた後にを拳骨で殴って、にひびが入ったこともある[1]。1968年は65試合に出場しているが全て当て馬での出場であり[2]1969年32試合、1970年39試合と出場。ブルペンでリリーフ投手の調子を見るのが主な仕事で、25試合に出場した1971年限りで現役を引退。

通算419試合でマスクを被ってポジションについたのは62試合、代打出場が120試合、残る237試合(全体の57%)は当て馬として名前を貸しただけの出場であり、166試合連続偵察出場というプロ野球記録も残した[2]

引退後も球団職員として南海に残り、ブルペン捕手スコアラーを歴任。1986年には1年だけ二軍バッテリーコーチを務めた。

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詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...

背番号

  • 48 (1957年 - 1965年、1968年 - 1971年)
  • 44 (1966年 - 1967年)
  • 84 (1986年)
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脚注

関連項目

外部リンク

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