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玉造陽二

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玉造陽二
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玉造 陽二(たまつくり ようじ、1936年8月17日 - )は、茨城県水戸市出身の元プロ野球選手外野手)。

概要 基本情報, 国籍 ...

経歴

水戸一高では中堅手として、エース橋本政雄(西鉄)を擁し1954年夏の甲子園に出場。しかし1回戦で、この大会に優勝した中京商中山俊丈投手に完封負け。

飛田穂洲をはじめ、早大野球部色が強い水戸一高に在籍しながらも慶大への進学を希望していたが卒業後は橋本とともに1955年に西鉄ライオンズ入団、高卒ルーキーながら一軍に定着する。翌1956年には外野陣の一角に喰い込み、5月からは一番打者に起用される。同年は規定打席には届かなかったが打率.297を残した。1956年からの3年連続日本一に貢献、西鉄黄金時代を支えた名脇役の一人である。1956年の巨人との日本シリーズでは全7試合に一番打者、中堅手として先発出場、20打数8安打1打点の好記録を残した。第3戦では1試合3盗塁のシリーズ記録を残している。翌1957年高倉照幸に一番打者を譲るが、その後も俊足巧打の外野手として活躍。特に流し打ちに定評があり、また併殺打も非常に少なかった。1960年には初の規定打席(19位、打率.263)に到達。強肩を活かし守備でも貢献、1962年には13補殺を記録した。1963年には自己最高の23盗塁を決め、同年の巨人との日本シリーズでも全7試合に左翼手として先発、29打数9安打と活躍する。1964年には打率.284(自己最高の11位)を記録した。しかし1966年からは打撃成績が下降、西脇興司三好守らに定位置を譲る場面も多くなる。

一方でチームの本拠地である平和台球場の観客動員が低迷、親会社の西日本鉄道が球団の経費節減に動き、豊田泰光をはじめ高額年俸選手のトレードや引退が続く。玉造もレギュラーであったにもかかわらず、31歳の若さで1967年オフに引退した。その後は実業家として活躍している。

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詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

節目の記録
  • 1000試合出場:1963年5月14日 ※史上79人目
その他の記録
  • 連続打席無併殺打:786 (1955年4月3日 - 1957年10月8日) ※当時のパ・リーグ記録[1]
  • オールスターゲーム出場:1回 (1964年)

背番号

  • 54 (1955年 - 1957年)
  • 22 (1958年 - 1959年)
  • 17 (1960年 - 1967年)
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脚注

関連項目

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