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萩原康弘

日本のプロ野球選手 (1947-) ウィキペディアから

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萩原 康弘(はぎわら やすひろ、1947年11月17日 - )は、神奈川県横浜市神奈川区出身の元プロ野球選手である。ポジションは外野手

概要 基本情報, 国籍 ...
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来歴・人物

荏原高校(現・日体大荏原高校)では1965年、3年次に一塁手として春の選抜に出場する。荏原高校は甲子園初出場であった。2回戦(初戦)で福島久晃長井繁夫らのいたPL学園に敗退[1]。同年夏の甲子園都予選では準決勝で日大二高に敗れ、甲子園出場を逸した。高校同期に中堅手で後にプロで同僚となる原田治明がいる。

卒業後は中央大学へ進学。東都大学野球リーグでは一塁手、左翼手として活躍。1967年の春季リーグではエース宮本幸信の好投もあり優勝。直後の全日本大学野球選手権大会でも、決勝で藤原真投手を擁する慶大を破り選手権初優勝を飾る。同年の秋季リーグではベストナイン(外野手)に選出されている。リーグ通算85試合に出場し、250打数68安打、打率.272、1本塁打、24打点を記録した。大学同期に皆川康夫末永正昭、甲子園で対戦した長井繁夫がいた。

1969年秋、ドラフト3位指名で読売ジャイアンツに入団。当時の巨人は高田繁柴田勲末次民夫が不動の外野陣を構成していたが、1971年シーズン前半には末次に代わり右翼手として起用される。同年は28試合に先発出場を果たすが、打率が上がらず後半は失速し、レギュラーには届かなかった。その後は主に代打や控え外野手として出場した。

1975年12月に小俣進との交換トレードで、広島東洋カープに移籍。1976年には31試合に先発し、打率.341の好記録を残す。その後も外野手、一塁手として長く準レギュラーとして活躍。1979年からのリーグ連覇に貢献し、近鉄との日本シリーズにも主に代打として連続出場している。1980年には自己最多の88試合に出場し、同年の日本シリーズでは、第4戦に左翼手として先発起用されるが、あまり活躍の場はなかった。

1982年オフ、広島を戦力外となり、ヤクルトスワローズへ移籍。だがヤクルトでは無安打に終わり、1983年限り現役を引退した。

プロでは守備走塁に難があり定位置の獲得には至らなくも、勝負強さを買われ、左の代打の切り札としてよく起用された。特に巨人在籍時の1973年10月11日後楽園球場での阪神タイガースとの首位攻防戦で、当時阪神のエースであった上田二朗から代打逆転3ランを放った(結果は引き分け)ことで名を知られた。

現役時代のニックネームは「オバケ」。命名の由来は2つあり、ひとつはルーキー時代、バットスイングにスピードがなく、荒川博コーチから「オバケがバットを振り回しているようだ」と評されたことと、怪談話が非常にうまく、話を聞いた同僚選手が怖さのあまり気絶するほどだったから、というものである[2]

引退後は東京都豊島区目白で喫茶店「HAGI」を経営している。またマスターズリーグ札幌アンビシャスに所属してプレーしていたこともある。

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詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...

背番号

  • 32 (1970年 - 1975年)
  • 28 (1976年 - 1982年)
  • 23 (1983年)
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脚注

関連項目

外部リンク

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