トップQs
タイムライン
チャット
視点

目梨郡

北海道(根室国)の郡 ウィキペディアから

目梨郡
Remove ads

目梨郡(めなしぐん)は、北海道根室国根室振興局

Thumb
北海道目梨郡の位置(緑:羅臼町 薄黄:後に他郡に編入した区域)

人口4,182人、面積397.72km²人口密度10.5人/km²。(2025年6月30日、住民基本台帳人口)

以下の1町を含む。

郡域

1879年明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記1町に標津郡標津町の一部(崎無異・薫別・古多糠・忠類)を加えた区域にあたる。

名称の由来

アイヌ語に由来する。由来となったアイヌ語の「メナㇱ(menas)」には「東」「東風」の2つの意があり、そのどちらであるかははっきりしていない。アイヌ語研究者の山田秀三は「東(の土地)」の意と解釈するにとどめている[1]

なお、もともとは現在の目梨郡のほか、現在の標津付近を含む地方名だった[1]

歴史

要約
視点

郡発足までの沿革

江戸時代の目梨郡域は、松前藩によって開かれたネモロ場所に含まれた。松前藩の「新羅之記録」によると、元和元年から元和7年頃、メナシ地方の蝦夷アイヌ)が、100隻近い舟に鷲の羽やラッコの毛皮などを積み、松前で交易したと記録されている。寛政元年、蝦夷の人々が蜂起したクナシリ・メナシの戦い(寛政蝦夷蜂起)が勃発、メナシ地方でも多数の和人が殺害される。同年、羅臼温泉が発見された。

江戸時代後期、目梨郡域は東蝦夷地に属していた。南下政策を強力に進めるロシアの脅威に備え寛政11年目梨郡域は天領とされた。文政4年に一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び天領となり会津藩が警固をおこなった。また、羅臼神社の創立は安政年間と伝わる。安政3 - 4年ころ知床半島硫黄山噴火があった。安政6年の6藩分領以降は会津藩領となった。戊辰戦争箱館戦争)終結直後の1869年大宝律令国郡里制を踏襲して目梨郡が置かれた。

郡発足以降の沿革

Thumb
根室国の市町村(5.羅臼町=目梨郡)
明治9年の大区小区
  • 第25大区
    • 5小区 : 忠類村、薫別村、崎無異村、植別村

行政

特記なき場合『根室・千島歴史人名事典』による[2]

根室郡外八郡長
さらに見る 代, 氏名 ...
根室郡外九郡長
さらに見る 代, 氏名 ...

脚注

参考文献

関連項目

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads