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秋元宏作

日本のプロ野球選手 (1968-) ウィキペディアから

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秋元 宏作(あきもと こうさく、1968年1月29日 - )は、東京都文京区出身の元プロ野球選手捕手)・埼玉西武ライオンズのスカウト・育成統括ディレクター。

概要 基本情報, 国籍 ...
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経歴

国学院久我山高では3年次の1985年春の第57回選抜大会に「4番・捕手」として出場するが、1回戦で松商学園に敗れる[1]。同年夏の西東京大会でも準決勝に進むが、日大三高に敗れ、ベスト4。

高校卒業後の1986年4月、日本大学に進学したものの野球部には入らず、母校のコーチを務めていた[1]。同年オフに日大を中退し、ドラフト外西武ライオンズに入団[1]

1987年シーズンには、和田博実二軍監督の引率でアメリカ1A「サンノゼ・ビーズ」へ野球留学もしたが[1]、当時の西武は伊東勤が正捕手で固定されており、一軍出場機会はなかった。

1990年シーズン開幕直前に村岡耕一河野誉彦との2対3の交換トレードで、駒崎幸一青山道雄と共に横浜大洋ホエールズへ移籍。移籍初年の背番号は普段コーチに使われるような83であったが[注 1]、一軍に定着して活躍。

1991年シーズンには背番号を39へ変更された[2]。この頃には打力と盗塁阻止は谷繁元信より劣るものの、守備やリードは秋元のほうが巧みであり投手陣には好評であった。特に佐々木主浩とは相性が良く、谷繁が先発している試合でも佐々木がリリーフ登板する際には秋元が交代してマスクをかぶることが度々あった[3]

1995年シーズンには捕手としてチーム最多の100試合に出場した。

1996年シーズンに大矢明彦一軍バッテリーコーチが監督に昇格すると谷繁が正捕手に固定され、出場機会が減少。

2000年シーズン限りで現役を引退。

引退後は横浜で一軍バッテリーコーチ(2001年シーズン, 2006年シーズン - 2007年)シーズン、二軍「湘南シーレックス」バッテリーコーチ(2002年シーズン - 2005年シーズン, 2008年シーズン - 2009年シーズン)・育成コーチ(2010年シーズン)を務めた。

2011年シーズンからは古巣・西武で二軍バッテリーコーチとして復帰。

2017年シーズンから2020年シーズンには一軍バッテリーコーチを務め、森友哉を正捕手へと育て上げた[4]

2021年シーズンは再び二軍バッテリーコーチを務めた[5]

2022年シーズンから球団本部のファーム・育成グループディレクターに就任[6]

2025年からは埼玉西武ライオンズの球団副本部長を務めることが発表された[7]

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詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...
  • 大洋(横浜大洋ホエールズ)は、1993年に横浜(横浜ベイスターズ)に球団名を変更

年度別守備成績

さらに見る 年 度, 捕手 ...

記録

初記録

背番号

  • 61(1987年 - 1989年)
  • 83(1990年)
  • 39(1991年 - 2000年)
  • 84(2001年 - 2009年、2011年 - 2021年)
  • 73(2010年)
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脚注

関連項目

外部リンク

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