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種部儀康

日本の野球選手 (1938-) ウィキペディアから

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種部 儀康(たねべ のりやす、1938年1月21日 - )は、鳥取県倉吉市出身の元プロ野球選手投手)・コーチ解説者。妻は宮田征典読売ジャイアンツ同期入団)の姉・鈴子。孫はシンガーソングライターグラビアアイドル宮田みほ[1]

概要 基本情報, 国籍 ...
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来歴・人物

上灘小から倉吉東中を経て入学した倉吉農業高ではエースとして活躍したが、同年次に米子東高義原武敏境高米田哲也といった好投手がおり、甲子園には出場できなかった。高校卒業後は1957年米子鉄道管理局へ入社し、改札切符切りなどの業務に従事。鉄道関係の略号などに詳しくなったほか、レールの上を走る汽車や貨車の車種を当てる特技も身に付けた。1961年にはクラレ岡山の補強選手として都市対抗に出場し、北海道拓殖銀行との1回戦に登板したが、敗戦投手となっている。1962年読売ジャイアンツへ入団。2年間は一軍登板無しに終わったが、2年目の1963年には第1回ジュニアオールスターに出場して勝利投手となったほか、二軍で9勝3敗・防御率1.50でイースタン・リーグ最優秀投手に輝いている。3年目の1964年には一軍に上がり、同年6月に上手投げから変則的なサイドスローに転向。スライダー、クセのあるシュートやカーブを武器に、主にリリーフとして起用される。1965年には自己最多となる33試合に登板して4勝を記録し、南海との対戦となった同年の日本シリーズ1966年の日本シリーズではそれぞれ1試合に登板。1968年は防御率6.00に終わり、1969年には登板が無く、オフに金銭トレードで南海ホークスへ移籍。ここでも主に中継ぎや抑えとして起用され、野村克也選手兼任監督の再生術により復活し、1970年は5勝を挙げる。1971年も22試合に登板するが、同年限りで現役を引退。

引退後は南海で1年だけ二軍投手コーチ(1972年)、南海退団後の1975年には群馬テレビプロ野球オープン戦中継」解説者を務めた[2]

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詳細情報

年度別投手成績

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年度別打撃成績

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記録

背番号

  • 29 (1962年 - 1968年)
  • 45 (1969年)
  • 16 (1970年 - 1971年)
  • 74 (1972年)
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脚注

関連項目

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