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紀伊新宮藩
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新宮藩(しんぐうはん)は、現在の和歌山県新宮市(紀伊国)を治めた藩。ただし、藩として正式に立藩されたのは明治元年(1868年)のことである。藩庁は新宮城(和歌山県新宮市)。藩主は和歌山藩の御附家老だった水野家で、石高は3万5千石。
藩史
新宮は戦国時代、豊臣家の家臣・堀内氏善が領していたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与したために没落する。
その後、紀伊国に封じられた浅野幸長のもとでは浅野忠長が領していたが、浅野本家が安芸広島藩へ移封されると忠長も随伴した。その後、安藤家と共に、徳川頼宣の附家老として入った水野重央が、新宮に3万5000石を領した。
水野家の入部をもって紀伊新宮藩の始まりともされるが、幕藩体制のもとでは、身分はあくまで紀伊徳川家の家臣であり、大名としては扱われなかった。水野家は代々家老として藩政に重きを成した。第9代・水野忠央は、後に和歌山藩主から第14代将軍となった徳川家茂(慶福)を補佐し、幕末の大老で有名な井伊直弼と協力して、家茂を第14代将軍にしようと奔走した。
徳川御三家の和歌山藩直轄から新宮城主・水野藩に知行替えが交付された際、現三重県熊野市木本町周辺の住民が猛反対し、当時の藩士吉田庄太夫が奔走して知行替えを中止させている。故人を偲んで木本神社に祀った。[1]
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歴代藩主
浅野家
外様 2万8千石
水野家
譜代 3万5千石
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幕末の領地
脚注
関連項目
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