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大老
江戸幕府の職名 ウィキペディアから
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大老(たいろう)は、江戸幕府の職制で、将軍の補佐役、臨時に老中の上に置かれた最高職である。より広義には、大名家・執政機関の最高責任者群を指す(豊臣政権の五大老などがよく知られる)。
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概説
非常置の職で定員は通常1名であった。重要な政策の決定にのみ関与し(大政参与)、評定所への出勤や月番などの日常業務は免除されていた。
初期の幕閣では松平定勝や松平忠明といった徳川家康の信頼が厚い親族(4代将軍・徳川家綱時代の保科正之もこれに近い)や井伊直孝・酒井忠世などの重臣(井伊・酒井両名が大老に就任したかどうかについては意見が分かれている)が元老としての役割を果たしていたが、その役割をベテランの老中に担わせた職掌とみることができる。その意味では譜代大名の名誉職的な意味合いが強い職であったが、酒井忠清・井伊直弼のように自らに権力を集中させる者もいた(江戸中期の大老・井伊直幸は田沼意次に同調し、幕政に一定の影響力を持っていた)。
記録で明らかな所では、寛永15年(1638年)に3代将軍・徳川家光が土井利勝・酒井忠勝を大老に格上げしたのが始まりとされる。その後、徳川家綱の時代に酒井忠清・井伊直澄が就任し、5代将軍・徳川綱吉が任命した堀田正俊の時に最高職としての体裁が整った。
大老職に就けるのは井伊・酒井(雅楽頭流宗家)・土井・堀田の4家に限定された。ただし、雅楽頭流酒井家はさらに宗家の前橋藩→姫路藩と別家の小浜藩に分かれた次の代でともに大老に就いているので、事実上5家と数えることもできる。
特徴としては、酒井、土井、堀田の3家は老中を務めている者からの選任となるが、井伊家はそもそも老中には任命されない習わしなので、いきなり大老に抜擢される形となる。なお、土井家は土井利勝、酒井家(雅楽頭流別家)は酒井忠勝、堀田家は堀田正俊だけが大老に登用された。
この4家以外では柳沢吉保が大老格に任命されている。
しかし、井伊家の井伊直政と共に徳川四天王と称せられ、石高でも堀田家を上回っていた譜代重鎮の酒井忠次・榊原康政・本多忠勝の末裔はこれに任じられないなど、大老4家を固定した基準はいまひとつ不明である。
在職中に殺害された大老は2人いる。堀田正俊は1684年に江戸城内で従叔父の若年寄・稲葉正休に殺害された[1]。また、幕末の井伊直弼は江戸城桜田門外で水戸藩・薩摩藩の浪士に殺害されている(桜田門外の変)。
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大老四家
大老一覧
大老
大老格
諸藩の大老
諸藩では藩主が幼少のときなどに、藩主を補佐するために設置された非常置の役職として大老職を置く藩もあるが、設置されているのが稀なポストであり、会津藩や福岡藩、高松藩などで見られる。設置されている藩でも、幕府の役職も掲載される『江戸武鑑』では「大老」の項目名は付されないが、会津藩では家老の項目より上位に記載されている。会津藩の大老として『江戸武鑑』で確認できる者に、松平容衆の代の田中玄宰や北原光裕がいる。また、水戸藩には800石取りの大老として藤井徳昭、出石藩には1500石取りの仙石久寿がいる。
参考文献
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- 美和信夫『江戸幕府大老就任者に関する考察』(「麗澤大学紀要」26号) 1978年12月 ※美和信夫『江戸幕府職制の基礎的研究:美和信夫教授遺稿集』(広池学園出版部 1991年7月発行 ISBN 4-89205-297-3)にも所載。
- 小池進『江戸幕府「大老」の成立をめぐって』、『江戸幕府直轄軍団の形成』 吉川弘文館 2001年9月 ISBN 978-4-642-03370-1
脚注
関連項目
外部リンク
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