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羽黒海憲司
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羽黒海 憲司 (はぐろうみ けんじ、1966年4月22日 - 2019年11月3日)は、大阪府高槻市出身の元大相撲力士。戸籍名は田中 憲二(たなか けんじ)(旧姓:津熊)。血液型はB型。
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来歴
1966年4月22日に大阪府高槻市で生まれる。1983年9月場所において立浪部屋から初土俵を踏み、関取昇進は果たせなかったものの幕下以下を20年も長く務め、2003年11月場所を最後に現役を引退した(番付には2004年1月場所まで記載された)。引退後は日本相撲協会に残留し、この時に定員が8名から13名に増加された世話人に就任した。2004年2月中旬にはホテルニューオータニで断髪式が行われた。
2010年5月場所に脊髄炎を発症して本場所の職務を欠勤。以降は入退院を繰り返していたとされる。
2019年11月3日の早朝に死去したことが立浪部屋の公式Facebookで公表された[1]、53歳没。同年9月場所後に体調を崩したという。亡くなる一週間前に急変、脳梗塞も併発し、死因は慢性腎不全とされた。親族の意向により、葬儀は家族葬で執り行われ、12月に「お別れの会」が開かれたとされる[2]。
エピソード
現役時代は長らく双羽黒光司の付け人を担当していたが、1987年10月に巡業先で他の付け人が双羽黒から暴行を受け、当該付け人を含む6人と共に脱走する騒動が勃発した。この一連の騒動を引き起こした力士が羽黒海であるとも言われたが、当の羽黒海は脱走した力士の中で最初に帰参の意思を示したという。双羽黒は同年12月に6代立浪(元関脇安念山)との対立の末に脱走、そのまま廃業したが、それから16年後の2003年、代替わりした7代立浪(元小結旭豊)に双羽黒(北尾光司)をアドバイザーとして招聘することを提案し、立浪も承諾したことで双羽黒を協会非公式ながら角界へ復帰させる仲介役を務めた。
2000年5月場所朝ノ霧が千代白鵬との取組で不浄負けを喫した際、次の取組の為に控えに居て”その瞬間”を目撃していたとされる。
日本人離れした風貌が特徴で、現役時代は街では10人が10人、外国人と間違え、話し掛けることもあったと言う。羽黒海自身はハーフでもない純日本人で、日本語しか話せない。また、若手時代、力士運動会の仮装行列でプロレスラー、タイガー・ジェット・シンに扮し大受けだった。
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主な成績
- 通算成績:420勝425敗2休(122場所)
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改名歴
- 立田仲 憲司(たつたなか けんじ):1983年9月場所 - 1993年5月場所
- 羽黒海 憲司(はぐろうみ - ):1993年7月場所 - 2004年1月場所
脚注
関連項目
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