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藤原綱継

平安時代初期の公卿。藤原式家、藤原蔵下麻呂の五男。正三位・参議、贈正二位 ウィキペディアから

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藤原 綱継(ふじわら の つなつぐ)は、平安時代初期の公卿藤原式家参議藤原蔵下麻呂の五男[1]官位正三位・参議、正二位

概要 凡例藤原綱継, 時代 ...

経歴

皇太子・安殿親王の春宮少・大進民部大丞を経て、延暦22年(803年)41歳でようやく従五位下に叙せられるが、叙爵以降は比較的順調に昇進していく。延暦25年(806年桓武天皇崩御後まもなく少納言に任ぜられ、同年5月安殿親王の即位平城天皇)に伴い従五位上に昇叙される。平城朝では少納言の他左衛門督を務めた。

大同4年(809年嵯峨天皇が即位すると侍従に任ぜられ、翌大同5年(810年正五位下に昇叙。嵯峨朝では民部大輔大舎人頭右京大夫兵部大輔神祇伯を歴任し、弘仁5年(814年)には従四位下に叙せられている。

弘仁14年(823年淳和天皇の即位に伴い従四位上・左兵衛督に叙任され、翌天長元年(824年蔵人頭、天長2年(825年)には参議に任官し公卿に列した。議政官として右京大夫・兵部卿を兼ね、天長5年(828年)正月に正四位下に叙せられるが、同年5月には子・吉野に参議の官職を譲り自らは致仕した。その後、山井里第に隠棲するが、吉野が淳和天皇の側近として昇進していく傍らで、綱継自身も天長7年(830年従三位に叙せられている。

仁明朝承和8年(841年正三位に至る。その後の承和の変に伴う吉野の失脚(承和9年〔842年〕)及びその死去(承和13年〔846年〕)よりさらに長命を保ち、承和14年(847年)7月26日薨去。享年85。最終官位は致仕参議正三位。没後正二位位階が贈られた。

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官歴

注記のないものは『六国史』による。

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系譜

尊卑分脈』による。

  • 父:藤原蔵下麻呂
  • 母:乙訓女王(掃守王の娘)
  • 妻:藤原姉子(藤原蔵下麻呂の娘)
  • 生母不明の子女
    • 男子:藤原吉永
    • 男子:藤原承吉

脚注

出典

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