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藤田宗一 (外野手)

日本の野球選手 (1914-1980) ウィキペディアから

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藤田 宗一(ふじた そういち、1914年8月20日 - 1980年9月3日)は、大阪府大阪市出身のプロ野球選手外野手)・コーチ監督

概要 基本情報, 国籍 ...
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来歴・人物

旧制甲陽中学校では1928年から1931年捕手外野手として合わせて5回連続で甲子園に出場。

法政大学に進学後は1933年から遊撃手となったが、1934年には捕手に戻った。打撃では常にクリーンアップを打ち、1936年春季には東京六大学リーグ首位打者となった。リーグ通算66試合出場、266打数73安打、打率.274、0本塁打、41打点。

卒業後は全大阪を経て、コロムビアに入社。1937年都市対抗には3番・三塁手で出場し、11打数5安打の活躍でチームの準決勝進出に貢献。

戦後の1950年には選手兼任監督としてプレーしていたが、既存のチームとは圧倒的な戦力差に悩んでいた新球団・国鉄スワローズから強力な勧誘を受けて、35歳という高齢ながらシーズン途中に入団。病気で倒れた妻の入院費用を捻出するためでもあった。主に3番打者で外野手として出場し、打率.288、11本、64打点の成績を残す。コーチ兼任となった1953年に引退。

1954年から1955年には国鉄の2代目監督を務めたが、2年連続5位という成績に終わった。在任中は宇野光雄箱田弘志が球団初のベストナインに入ったほか、金田正一が奪三振の世界新記録を打ち立て、町田行彦本塁打王を獲得した。

国鉄退団後の1956年には古谷法夫初岡栄治と共に日本通運浦和へ入社し、野球部の初代監督に就任。在任中は都市対抗2回出場(準優勝1回)、産別対抗3回出場(ベスト4が1回)の成績を残し、1959年退任。

1980年9月3日死去。享年66。

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詳細情報

年度別打撃成績

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通算監督成績

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背番号

  • 31(1950年 - 1953年)
  • 30(1954年 - 1955年)
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脚注

関連項目

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