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箱田淳
日本の野球選手 (1932-2021) ウィキペディアから
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箱田 淳(はこだ じゅん[1]、本名:箱田 弘志(はこだ ひろし)[1]、1932年2月1日 - 2021年2月18日)は、広島県福山市出身のプロ野球選手(内野手、投手)・野球解説者"[1]。
国鉄(現ヤクルト)の球団創設期を支えた"元祖二刀流"[1]。
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経歴
要約
視点
盈進商業(現・盈進高校)から速球投手として鳴らす。1948年秋季中国大会県予選決勝に進むが、鯉城高に延長14回敗退。その後も予選で敗れ甲子園出場の機会はなかった[1]。1951年に球団創立2年目の国鉄スワローズに入団[1]。
スライダー、カーブ、シュート、ナックルを武器にして、3年間は投手として61試合に登板し、4勝10敗。選手不足から毎年内野手としても数試合出場した。1953年は投手として30試合に登板し3勝、7月30日には名古屋ドラゴンズを5安打に抑え初完封勝利を飾る。また内野手としても3試合に出場、代打起用も含め打率.272(92打数25安打)を記録。
4年目の1954年から自ら監督に申し出て打者に専念[1]。小柄ながらリストの強い鋭いスイングと垢抜けたプレーで開幕から二塁手に定着、初めて規定打席に達する。打率.323 と打ちまくり球団創設初の打率3割(打撃ベストテン4位)を記録し、三塁手の宇野光雄と共に、これも球団初のベストナインに選ばれた[1]。1955年に登録名を箱田 淳に改名するが、故障欠場が多くこの年は規定打席には届かなかった。
1956年には三塁手に回るが、打率.259で打撃ベストテン10位に喰い込み、リーグ最多三塁打(13本)も記録。1957年は三塁手、二塁手を兼ね、27試合に四番打者として起用される。1958年にリーグ最多単打(114本)を記録。1959年は開幕から四番に抜擢されるが6月に故障、7月には復帰するが打撃が伸び悩み、町田行彦に四番の座を譲る。1956年 - 1958年に3年連続でオールスターゲーム出場。脆弱な国鉄打線の中で野手のリーダー格となり、投手の金田正一、野手の佐藤孝夫、町田行彦らとともに球団創成期のスワローズを支えた[1]。
1950年代のスワローズの投手部門のチーム1位は全部門で金田正一だったが、打撃部門(打率、本塁打、打点)のチームトップは、この箱田か佐藤孝夫か町田行彦か飯田徳治だった。7年間ほぼ全試合に出場した。1960年には自己最高の16本塁打、57打点を記録するが、チーム最下位の責任をとり宇野が監督を辞任。いわゆる“反・金田”だった宇野が辞任したため、宇野派だった箱田もA級10年選手制度の権利を行使し、翌1961年に大洋ホエールズに移籍した[1]。巨人が獲得に動いたため、巨人に行かせないために大洋が獲ったといわれる[2]。大洋には二塁手として近藤昭仁がおり、同年は開幕から一塁手として出場、その後も内野のユーティリティプレイヤーとして活躍する。4年間大洋に在籍したが、1964年限りで現役引退。
引退後は野球解説者となった。2002年に「スワローズOB会」を発足させ(国鉄系・サンケイ - ヤクルト系の複数存在したOB会組織を統一)[1]、高齢ながらスワローズOB会(つばめスポーツ振興協会)を通じて少年野球の指導を行っていた。
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人物
安部譲二と仲がよく、安部の著書『プロ野球死んでもらいます』に箱田とのエピソードが書かれている[3]。ハンサムで人気選手であったが、箱田自身がトヨタ自販の副社長の娘に猛アタックし結婚した。しかし、この岳父と折り合いが悪く離婚となり、大洋を辞める時には全財産を無くした。そのとき阪急から、当時の給料15万円で来ないかと誘われたが、関西に移ってまで野球をしたくない、また精神的にも疲れたとユニフォームを脱いだ。ちょうどその頃、安部が箱田と居た時、日刊スポーツから電話があって、金田の3種類のカーブをどうやって打つか、「金田の3種類のカーブ、こうして打て」という題で連載してくれという依頼があった。安部は「言え、言え、おれが書いてやるから」と散々説得したが箱田は固辞。日刊スポーツは「あの金田のカーブを、どうやって打つかを語れるのは、プロ野球で箱田淳しかいない」と粘り、提示された金額も100万円と、1965年頃のその金額は大変な額で、金のない当時の箱田としては喉から手が出る程欲しかったと思うが、「金に釣られて書いたら男がすたる」と結局断ったとされる。なお、箱田によると金田のカーブは3種類ではなく5種類あったとされる。 ゴルフが非常に上手である。
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詳細情報
年度別投手成績
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
表彰
- ベストナイン:1回 (1954年)
記録
- 節目の記録
- 1000試合出場:1961年6月20日 ※史上61人目
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:3回 (1956年 - 1958年)
背番号
- 15 (1951年 - 1953年)
- 3 (1954年 - 1964年)
登録名
- 箱田 弘志 (はこだ ひろし、1951年 - 1954年)
- 箱田 淳 (はこだ じゅん、1955年 - 1964年)
脚注
参考文献
関連項目
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