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町田行彦
日本の野球選手 ウィキペディアから
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町田 行彦(まちだ ゆきひこ、1934年3月8日 - )は、長野県長野市出身[1]の元プロ野球選手(外野手)・コーチ・監督。
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経歴
長野北高校では、2年生次の1950年夏の甲子園予選信越大会決勝に進むが、松商学園に敗退し甲子園出場を逸する。同年の秋季北信越大会では優勝を飾るが、翌1951年春の選抜には選出されなかった。高校通算36本塁打[2]。高校同期に松橋慶喜、1年下に山岸静馬がいた。
1952年に国鉄スワローズへ入団。入団後まもなく強肩を見込まれて、本来の守備位置である三塁手から外野手にコンバートされた。1953年には開幕から右翼手として起用され、7月には杉浦清に代わり初の四番打者も経験。1954年には初の規定打席(29位、打率.250)に達する。1955年に31本塁打を放ち本塁打王を獲得し、打率も.280の好成績でベストテン10位に喰い込む。なお、この年は三振98個もリーグトップで「三振王で本塁打王」となった[3]。21歳シーズンでの本塁打王はセントラル・リーグの最年少記録[注 1]で、2021年の村上宗隆が並ぶまでリーグ単独記録だった[4]。
翌1956年には22歳で開幕から4番打者として起用されるも、開幕前に故障して57試合の出場に留まる。1957年は復活して、本塁打王(佐藤孝夫・青田昇)に1本差の22本塁打を打った。その後も主力打者として活躍し、「西のホームランキング中西太・東のホームランキング町田行彦」と並称された。また、長嶋茂雄が金田正一にプロデビュー戦で4打席連続三振を喫した事で著名な1958年4月5日の対巨人戦では決勝点となる本塁打を放っている。しかし、腰を痛めてからは低迷が続いた。
1965年に球団の経営権が国鉄からサンケイに譲渡される中、国鉄の今泉代表による経営立て直し策として、高給のわりに貢献度の少ない選手として整理され自由契約となる[5]。なお同時に国鉄のベテラン土屋正孝(阪神へ移籍)・宮本敏雄(引退)らも退団している[6]。翌1965年に巨人にテスト生として入団したが、27試合に出場したのみで同年に現役を引退。
その後は巨人で二軍打撃コーチ(1967年 - 1975年, 1983年 - 1989年)、一軍外野守備・走塁コーチ(1976年 - 1978年)、一軍外野守備コーチ(1979年)、二軍監督(1990年 - 1991年)、国鉄の後身・ヤクルトで二軍打撃コーチ(1980年)、一軍打撃コーチ(1981年 - 1982年)、台湾の統一ライオンズで打撃コーチ(1995年 - 1997年)を務めた。統一では2年連続リーグ優勝に貢献し、1997年には代理監督も務めている。
元セ・リーグ審判員の松橋慶季とは、高校時代の同級生であり、国鉄でも一緒にプレーしていたことがある。長野高校の創立100周年記念行事の一環として、二人が並んで対談を行った。
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選手としての特徴
詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
- 本塁打王:1回 (1955年) ※セ・リーグ最年少記録(21歳)
表彰
- ベストナイン:1回 (1955年)
記録
背番号
- 27 (1952年 - 1956年)
- 7 (1957年 - 1962年)
- 5 (1963年 - 1964年)
- 41 (1965年)
- 74 (1967年 - 1979年)
- 73 (1980年 - 1982年)
- 70 (1983年 - 1991年、1995年 - 1997年)
参考文献
- 『日本プロ野球トレード大鑑』ベースボールマガジン社、2001年
- 沢木耕太郎『敗れざる者たち』文春文庫、1979年
- 森岡浩『プロ野球人名事典』日外アソシエーツ、1999年
- 宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑』講談社、1993年
脚注
関連項目
外部リンク
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