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酒井圭一

日本の元プロ野球選手 ウィキペディアから

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酒井 圭一(さかい けいいち、1958年6月1日 - )は、長崎県壱岐市出身の元プロ野球選手投手)、スカウト。現役時代の愛称は「サッシー[2]。これは当時話題となった未確認動物ネッシー」にちなむ、怪物を意味するものだった[2]

概要 基本情報, 国籍 ...
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来歴・人物

長崎・海星高で、1976年の高校3年の夏には、長崎・西九州大会の予選計7試合で70奪三振、失点1の好成績をあげる。このうち2試合はノーヒットノーラン、長崎大会3回戦の島原中央高戦では初回先頭打者から16者連続奪三振を記録した[2][3]

その後の、第58回全国高校野球選手権大会で、長崎県勢24年ぶりの4強進出を果たす。準決勝ではPL学園高の中村誠治(早大 - 日産自動車)、米村明と投げ合い惜敗するが、同大会では5試合で被安打16、奪三振40、失点6の成績で、サッシー旋風を巻き起こした[2][4]

1976年ドラフト1位でヤクルトスワローズに入団[5]。当時の松園尚巳オーナーも長崎出身で、酒井を大変可愛がっていたという。松園は事前に指名するよう命令していた。そのため、当時の寮長だった小川善治はみんなに内緒で長崎に行き、酒井にだけ基礎トレーニングを行っていた[6]。入団が決まった後に開かれた激励会には当時の長崎県知事、長崎市長も出席する程の盛り上がりだった[1]

1977年は1年目から6試合に登板。初勝利とはならなかったが、5試合に先発するなど経験を積んだ。

1978年は一軍登板なしに終わる。

1979年はオープン戦で左頬の陥没骨折に見舞われる[7]。その後、2年ぶりに一軍マウンドへ上がるが、この年も白星を挙げられなかった。

1980年には4勝4セーブを記録する[1]。防御率も3.11を記録し飛躍の年となった。この頃には「速球本格派」から「技巧派」にモデルチェンジしていた[8]

1981年は14試合に中継ぎとして投げた。

1982年は起用機会が減り、芳しい成績を残せなかった。

1983年は15試合に登板。

1984年に自己最多の42試合に登板。

1985年は8試合に登板。

1986年は2試合に登板。

1987年は28試合に登板し、まずまずの成績を残す。

1988年は防御率2.86と好成績を記録。

1989年は5試合の登板に終わり、苦しいシーズンだった。

1990年野村監督に促され現役引退。

引退後もヤクルトに所属し、まずは打撃投手を務め、その後はスカウトを務めた[9](九州地区[10])。投手獲得の際には酒井の意見が重宝されていた。

2019年に定年退職。母校の海星高が17年ぶりの夏の甲子園白星を挙げた際は、喜びの声を挙げていた[11]

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選手としての特徴

球種はキレ抜群の速球と縦・横のカーブのみ[12]。中継ぎを任されるようになってからは、スライダーフォークシンカー系のボールを投げていた。指名時には超高校生級の評価を受けていた。プロに入ってからは右肘の剥離骨折など故障に泣き、6勝に終わった[13][1]

詳細情報

年度別投手成績

さらに見る 年 度, 球団 ...

記録

  • 初登板・初先発:1977年4月21日、対大洋ホエールズ5回戦(明治神宮野球場)、6回2失点で勝敗つかず
  • 初勝利:1980年4月30日、対横浜大洋ホエールズ3回戦(明治神宮野球場)、3回表無死から3番手で救援登板、4回1/3を1失点
  • 初セーブ:1980年5月7日、対阪神タイガース4回戦(岡山県野球場)、9回裏二死から3番手で救援登板・完了、1/3回無失点
  • 初先発勝利:1980年8月7日、対読売ジャイアンツ17回戦(明治神宮野球場)、7回1失点

背番号

  • 18(1977年 - 1983年)
  • 23(1984年 - 1990年)
  • 99(1991年 - 1998年)

脚注

関連項目

外部リンク

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