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野田征稔

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野田 征稔(のだ ゆきとし、1941年12月5日 - )は、長崎県諫早市出身の元プロ野球選手内野手外野手)・コーチ監督

概要 基本情報, 国籍 ...
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来歴・人物

PL学園高では1番・二塁手として活躍し、3年次の1959年夏の甲子園大阪大会で準々決勝に進出するが、後にプロで同僚となるエース・久野剛司を擁する八尾高に敗退。

1960年からはPL教団でプレーし、土井垣武コーチの指導を受ける。

1962年都市対抗近畿予選で負けた後にチームが解散したためプロ入りを望み、1963年秋に阪神タイガースへテスト入団。同年は選手登録されておらず、選手登録は1964年からであるが、PL学園出身のプロ野球選手第1号である。

テストをした時に藤本定義監督に俊足に目を付けられ、入団後は吉田二世と囁かれた。脚力と守備力は二軍でずば抜けていた。

1965年は終盤の3試合に二塁手・遊撃手として先発を果たす。

1967年は主に外野手として起用されて10試合に先発出場。

1968年にはウエスタン・リーグ首位打者を獲得。

1969年に内野手へ戻る。

1970年は故障の藤田平に代わって7月から遊撃手に入り、88試合に出場。

1971年は負傷欠場の安藤統夫に代わり6月から二塁手の定位置を得ると、チャンスメーカーとして活躍し打率.259を記録。

1973年までレギュラーを守り、同年にはリーグ最多の21犠打を記録する。

1974年には開幕戦には先発出場するものの中村勝広にポジションを譲る。

1975年引退。

引退後も阪神に残り、マネージャー(1976年 - 1977年)を経て、1978年の1年間だけ二軍守備・走塁コーチを務める。

1979年からはフロント管理部ファーム担当となり、次長まで昇進。

1988年から1989年にかけては村山実監督の専属マネージャーとして活躍し、同年10月には辞任の村山と新監督・中村の握手を影で演出するが、後に「監督交代のたびに前後が断ち切られる阪神の悪しき伝統を打ち破りたかった」と語っている。

1995年のシーズン途中からは監督の中村が休養、二軍監督の藤田が監督代行就任に伴い二軍監督となる。

1996年、首位から18ゲーム離れた最下位に終わり、同年退任。

1997年から再びフロント入り。

2001年に営業部次長として定年を迎える。定年後は編成部の嘱託スカウトとなる。

2004年まで務め退団した。この間にはタイガースOB会の役員となり、少年野球の指導にも力を入れる。

退団後、野球タイ王国代表のコーチを2006年まで務める。

2008年BCリーグ福井ミラクルエレファンツ野手コーチに就任。

2010年からは監督を務める。

2011年のシーズンを最後に勇退した[1]

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詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...
  • 各年度の太字はリーグ最高

背番号

  • 72 (1963年)
  • 38 (1964年 - 1969年)
  • 2 (1970年 - 1975年)
  • 75 (1978年)
  • 84 (1995年 - 1996年)
  • 77 (2008年 - 2011年)
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脚注

関連項目

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外部リンク

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