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飯塚定輔

日本の政治家 ウィキペディアから

飯塚定輔
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飯塚 定輔(いいづか さだすけ、1897年明治30年)10月14日[2] - 1970年昭和45年)11月5日[3][4])は、昭和期の実業家政治家衆議院議員(5期)。

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1953年

経歴

秋田県[3][4]雄勝郡、のちの羽後町出身[5]。1927年(昭和2年)日本大学法文学部法律学科を卒業した[3][4][5]

協調会嘱託、国務大臣秘書官立憲民政党政務調査会専門調査員、末広汽船社長、菊谷工業取締役会長などを務めた[4][5]。1945年(昭和20年)2月14日、従六位に叙される[6]

1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙旧秋田県第2区から民主党公認で立候補して次点で落選[7]。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙民主自由党公認で立候補して初当選[3][4][5][8]。以後、1953年(昭和28年)4月の第26回総選挙まで再選された[9]。1955年(昭和30年)2月の第27回総選挙では落選し[9]、1958年(昭和33年)5月の第28回総選挙で再選され[9]、次の第29回総選挙でも当選し[10]、衆議院議員に通算5期在任した[4][5]。この間、郵政政務次官第5次吉田内閣)、外務政務次官(第2次池田内閣)、衆議院逓信委員長、民主自由党政調会逓信部長、自由党組織局青年部長、同副幹事長、自由民主党総務、同広報委員会副委員長、同政調行政調査会副会長などを務めた[3][4][5]。その後、第30回第32回総選挙に立候補したがいずれも落選した[10]

1970年(昭和45年)11月の秋の叙勲勲二等に叙され、瑞宝章を受章する[11]。しかし叙勲直後の11月5日、肝硬変のため東京都立川市立川病院で死去した。73歳没。同月10日、特旨を以て位五級を追陞され、死没日付をもって従六位から正四位に叙された[1]

告別式は青山葬儀所で行われた[12]

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脚注

参考文献

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