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ばんばひろふみ

日本のフォークシンガー、ラジオパーソナリティ (1950-) ウィキペディアから

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ばんば ひろふみ1950年昭和25年〉2月20日[1] - )は、日本フォークシンガーラジオパーソナリティ。本名は馬場弘文(読みは同じ)。京都市東山区祇園出身[2]。既婚。離婚1回。愛称は「ばんばん」。ペンネームは馬場章幸。血液型はB型。京都市立清水小学校、中高一貫校である立命館中学校・高等学校を経て、立命館大学経済学部卒業[2]所属事務所ヤングジャパンアップフロントエージェンシー(現:アップフロントプロモーション)→アップフロントクリエイト

概要 ばんばひろふみ, 出生名 ...
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来歴

子供時代

実家は八坂神社の近くのお茶屋で、玄関から座敷までがお茶屋で、それ以外がばんば家族の生活空間だった[2]。子供の頃はばんばたちが普通に日常生活を送る中、隣のお座敷では芸妓・舞妓と客たちが宴会している、という状況だった[注釈 1]。祇園での暮らしはばんばの人となりを形成する上で大きな影響を与え、その後華やかな芸能の世界に憧れを持つきっかけとなった[2]。幼い頃からバイオリンを習っていたという[3]

中学から大学まで立命館に通った[2]。小学校時代は同級生のほとんどの家がばんばと同じくお茶屋などの似たような商売をしていた。このため中学に入ってから、「世間一般ではお茶屋の家の子はごくわずかで、サラリーマンなどの家庭の方が多い」と知って面食らったという[2]

大学時代の音楽活動

大学入学時は学生運動の真っ只中で、バリケードで封鎖されていたため2年間は大学の中に一切入れなかった[2]。これにより授業もなく暇を持て余したことで、大学時代は音楽三昧の生活となった[2]。当初ロックをやっていたが、大学2年生の頃に友人に誘われて“フォークの方がモテるかも”と思ってやり始めた[注釈 2]

当時は京都御所の芝生で演奏ができたことから、様々なフォークグループがそこで演奏活動を行っていた。その中の一つとしてばんばたちも御所で演奏すると、近辺を通学路にする女子高や女子大などのファンがついた。しかしほどなくして石岡達雄、山本博史とバンド「ジャッケルズ」を結成するもヒットには至らず、発売したレコードは全く売れなかった[2]。その後うっかり必修科目を取り忘れていたことで留年が決まり、石岡・山本が就職を決めたことで「ジャッケルズ」は自然消滅した[2]

バンバン結成、東京へ

進路を考えていた頃、同じく関西で音楽をやっていた谷村新司(当時はフォークグループ「アリス」として活動)から、「新しい音楽事務所が立ち上がるから一緒に参加しよう」と誘われた[2]。ばんばはフォークグループ「バンバン」を結成し、新たに音楽活動をスタートさせることになった[2]

レコードを発売したもののヒット曲がないまま時は流れ、24歳の頃に事務所の東京進出を機にバンバンも付いていった[注釈 3]。上京後はアルバイトしながら、麻布十番の暗闇坂の小さなアパートで、バンバン、アリス、事務所社長と雑魚寝状態で生活した[2]

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略年譜

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人物

ラジオについて

20代から長年に渡って様々なラジオ番組のパーソナリティとして出演している[2]。音楽業、ラジオで活動するばんばは後に、「僕にとって音楽が“幹”だとすると、ラジオは“枝”なんです」と評している[2]

1970年代から1980年代前半には、「MBSヤングタウン」(MBSラジオ)や「セイ!ヤング」(文化放送)のパーソナリティとして谷村新司と競演[2]。「セイ!ヤング」では、「顔が大きい」という特徴をネタに聴取者からの投稿コーナーも含めかなりの弄られキャラを演じた。

また、バンバンの「『いちご白書』をもう一度」は、レコード発売前に文化放送のばんばのラジオ番組で初めてオンエアされた[2]。翌週そのスタジオでハガキの詰まったダンボール箱を見た本人は、「今日はえらい数の(リスナーの投稿)ネタが届いたな」と思っていたら、全て同曲のリクエストハガキだったため反響の凄さに驚いたという[2]

ビートルズへの憧れ

中学2年生の頃、近所のレコード屋の店内で流れた「プリーズ・プリーズ・ミー」に衝撃を受け、その日を境にビートルズに夢中になった[2]。高校2年生の頃にビートルズの武道館公演が開かれることになり、学校から“ビートルズを観に行くなら退学”と言われていた[2]。どうしても観に行きたかったため退学届を出して東京まで公演を観に行ったが、結局退学にはならなかった[2]

若い頃に、「64歳になったらイギリスでビートルズ巡礼の旅に出よう!」と決意[2]。以降プライベートはもちろん、海外ロケの仕事を依頼されても、イギリスだけは頑なに断ってきたという[2]。そして、64歳になった時に長年の夢を叶え、ジョン・レノンの生家などを周って大満足したとのこと[2]

代表曲

SACHIKO1979年1980年
当曲の大ヒットにより、全国の「サチコ」という女性から「『さちこ』っていう名前、自分で嫌いだったけど、この歌を聴いて好きになった」といったファンレターが大量に寄せられた[6]。なお、ニック・ニューサ1981年にリリースした「サチコ」とは完全な別物である。
速達(1982年1983年
発売当時、MBSヤングタウン金曜日でザ・ベストテンにこの曲をランクインさせようという呼びかけ(机・イッツマイライフ運動)が起こり、その結果同番組のはがきリクエストランキングで最高9位を記録した。ヤンタンファンへの感謝とメッセージをこめてザ・ベストテン「今週のスポットライト」コーナー登場時、カメラに向かってピックを投げるという公約を守った。なお、運動名の由来は、当時ベストテン入りしていた大川栄策が得意のタンス担ぎを披露したことに対し、同じく顔が大きいからという理由でこれに対抗して「それならばんばんは机を担げ」という流れによるものであったが、さすがに本番のスタジオに机を抱えて登場することはできなかった。なお当時、自ら「自分は、4年に一度ヒット曲が出るので、オリンピック歌手と呼ばれてます」と発言していた。
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ディスコグラフィ

シングル

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アルバム

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タイアップ

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出演番組

テレビ

ラジオ

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脚注

関連項目

外部リンク

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