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松任谷由実
日本の女性シンガーソングライター (1954-) ウィキペディアから
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松任谷 由実(まつとうや ゆみ、1954年1月19日[5] - )は、日本のシンガーソングライターである。本名同じ。旧姓名および旧芸名は、荒井 由実(あらい ゆみ)。愛称は「ユーミン(Yuming)」。
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概略
要約
視点
1972年に荒井由実の名でEMIミュージック・ジャパンからシングル「返事はいらない」でデビュー。一部企画では、愛称の「ユーミン(Yuming)」名義での活動もある。1976年の結婚以降は松任谷由実へ改姓。所属レコード会社はユニバーサルミュージック(旧:EMIミュージック・ジャパン)。血液型はO型。
雲母社取締役、苗場プリンスホテル名誉総支配人(期間限定)。紫綬褒章受章者(2013年〈平成25年〉)[6]。公式ファンクラブは「Yuming Fan Club」。
他のアーティストへの作品提供の際には、本名のほか、グレタ・ガルボをもじった[7]ペンネームである呉田 軽穂(くれだ かるほ[8])を使用する場合もある[9]。
生い立ち
呉服屋を営む荒井家の3男2女の第4子(次女)として生まれる[注 2]。6歳からピアノ、11歳から三味線、14歳からベースを始めた。
中学時代には、当時国内外の文化人が集まるサロン的存在だった港区麻布台のイタリアンレストラン「キャンティ」に出入りしていた。またフィンガーズの追っかけもしていた。のちに同レストランに集まったアーティストからアルファレコードが生まれ、デビューのきっかけを作った。
立教女学院高校に進学し、当時「(立教女学院の)パイプオルガン、プロコル・ハルムに強い衝撃を受けた」と語っている[11][12]。また高校にかけては、御茶の水美術学院に通い、年長の同窓生の影響でアルチュール・ランボー、ジャック・プレヴェールを愛唱、多大な影響を受ける[13]。
14歳のころ、当時親しかったシー・ユー・チェンが荒井を「ユーミン」と呼び始め、これがのちに愛称として定着する。
デビュー、荒井由実として活動
1971年、高校3年生のときに書いたデモテープが採用され[14]、加橋かつみに「愛は突然に…」を提供し、17歳で作曲家としてデビューした[14]。採用した日本フォノグラムのプロデューサー・本城和治は「ユーミンの声はフランソワーズ・アルディが歌っているみたいな、日本人にはちょっといないタイプで好きになりました。それでレコーディングにも来てもらったんですが、すごくいいセンスしていると思ったのに、彼女を歌手にしようという発想はできなかった。プロデューサー人生、最大の失敗と言っていいかもしれない。彼女は当初は好きだったブリティッシュポップ系の作品が多かったんですが、マンタ(松任谷正隆)と付き合うようになってから、アメリカンポップスも聴くようになった。それで『ルージュの伝言』みたいな曲も書くようになったんです」などと述べている[14]。
荒井は『月刊明星』1976年12月号のインタビューで「立教女学院の高1のとき初めて作った歌を加橋かつみに見せたらノッちゃって録音したの。『愛は突然に』っていう歌。ピアノは小学校1年から習ってて自分でインストルメンタルの曲を作ってたの。でもそれじゃレコード出せないって、当時流行してた『わたしの城下町』みたいなの作りなさいって言われて作ったのがデビュー曲の『返事はいらない』。五輪真弓が『少女』を出した頃。でもフォークにはあんまり興味なくって、プロコル・ハルム『青い影』一点張りだったの…」などと述べている[15]。
染色の専攻を志し、1972年4月に多摩美術大学に入学[16]。
元々作曲家志望だったが、アルファレコードを設立した村井邦彦の勧めで、同年7月5日にかまやつひろしがプロデュースしたシングル「返事はいらない」で荒井由実としてデビュー。しかし同シングルは300枚[17]、800枚しか[17]売れなかった[17]。
1973年11月に、キャラメル・ママらとレコーディングしたファーストアルバム『ひこうき雲』を発売。デビュー時は特に話題になることはなく[17][18]、デビューから1年半の間は、パーソナリティ・林美雄が金曜日第2部(土曜日3時 - 5時)を担当していたTBSラジオの深夜放送「パックインミュージック」以外にはマスメディアに取り上げられない状況が続いたが[17][18]、林のプッシュもあり、徐々に知名度を上げてゆく[18]。1974年4月21日に東京東新橋のヤクルトホールで行われたデビューコンサートは、当時としては高額なチケット代1500円で[17]、半分も売れず、林が「男の心意気でユーミンのコンサートに行こう!」とラジオで呼びかけ[17]、満員になったといわれる[17]。ユーミン最初のファンクラブの運営も「林美雄パック」のリスナーのグループが運営した[17]。石川セリや山崎ハコも、同番組により知られるようになった[18][17]。
1974年より本格的にステージ活動を開始する。
デビュー直後は「女拓郎」「女陽水」と呼ばれたが[19][20]、「私のやったことは拓郎やかぐや姫とは違う。私のつくった曲は今までにない新しいもの」などと著書で述べている[19]。
1975年8月発売のフォークグループバンバンへの提供曲「『いちご白書』をもう一度」が1位を獲得し、また同年10月発売の自身のシングル「あの日にかえりたい」(TBSドラマ『家庭の秘密』主題歌)が、初のオリコンチャートシングル1位を獲得、1976年のシングル年間ランキング第10位のヒットとなった。このヒットがきっかけとなり、自身の過去作品『ひこうき雲』や『MISSLIM』の売り上げも急激かつ長期的に上昇し、75年発表の『COBALT HOUR』は46万枚以上を売り上げるヒット、76年発表の自身初のベストアルバム『YUMING BRAND』は初となるアルバム1位を獲得、76年アルバム年間ランキングでも3位の大ヒットとなり、荒井由実期における最大の売り上げを誇るなど、1975年後半から1976年にかけて荒井由実ブーム(第一次ブーム)が到来する。
『映画ファン(eiga fan)』(愛宕書房)は、1976年4月号で『フォーク界にふきあれるウーマン・リブ旋風 女性シンガー・ソングライターたち』という特集を組み[21]、吉見佑子は「出揃ったばかりの女性シンガー・ソングライターたち」「女性シンガー・ソングライターがあっという間に増えてしまったという感じが強いニューミュージックの世界。どうしても男のコの印象の方が強烈だけど、女のコもなかなかどうして立派な足並みが春に向かって揃いそう」と、当時抬頭が目立った女性シンガー・ソングライターたちを取り上げ、荒井由実、イルカ、吉田美奈子、五輪真弓、金子マリ、山崎ハコ、中山ラビらを紹介し、冒頭で荒井を取り上げ、「歌そのものより、歌ってるムードがチャームポイント。フォークとかロックとかそういうジャンルに見せる歌として登場して華麗にユーミンの世界をつくりあげたことはとてもすてきなお話。八王子の歌姫も今やファンタジックなポップスターとしてアイドル的存在になった。作詞・作曲の方もバンバンの『『いちご白書』をもう一度』というビッグ・ヒットを生んで以来、大忙しで着実に作りつづけていることは御立派。青春そのものの詩を書かせたら、やっぱりきれいでわくわくしまう。『ひこうき雲』の頃はあのすました笑顔のゆくえがうつろだったけど『コバルトアワー』あたりでユーミンの世界がはっきり見えたみたい。ユーミン・ファンとしては歌いつづけられる限り、こわれそうな青春を表現してもらいたい」などと評している[21]。また番組名が書かれていないが、「1976年3月14日(日)の夜、TBSテレビの19時30分 - 21時枠で、今までも一部の放送局でミニ・コンサートを開いたことはあるが、ユーミンが初めて全国ネットのテレビに出演する」と書かれている[21]。荒井のシングルヒットは前述のように1975年10月リリースの「あの日にかえりたい」が初めてであるが[22]、これ以前の女性シンガー・ソングライターの大ヒットとしては、1973年12月リリースの小坂明子「あなた」[22]、1974年3月リリースのりりィ「私は泣いています」[22]、1975年5月リリースの小坂恭子「想い出まくら」などがあり[22]、彼女たちは毎日のようにテレビに出て歌ったが、荒井はテレビに全く出なかったため[21]、当時のテレビの影響力を考えれば、荒井が世間一般からどの程度の知名度があったものなのかは分からない。1970年代半ばころから、荒井らニューミュージック系歌手のアルバムがチャートを席捲してはいたが、シングルレベルでは歌謡曲・演歌・企画ものがまだまだ強い時代であった[23][24]。1979年5月5日発行の『NEW MUSIC LAND』(近代映画社)での特集「NEW MUSIC HISTORY」では「1976年7月に丸山圭子の『どうぞこのまま』が発売され、女性シンガー・ソング・ライターが注目され、ブームが起こる」と書かれている[25]。
荒井は自身の音楽性について『月刊平凡』1976年5月号のインタビューで「音楽は趣味でやってます。ブルジョアだから悪いってことない。私の音楽はイージーリスニング。BGMみたいなもの。朝起きたとき、夜寝る前に、ふっとかけてみたくなるような音楽がつくれたら」と述べている[26]。
結婚、松任谷由実として活動
1976年11月29日、松任谷正隆と横浜山手教会にて結婚、その後は松任谷由実として音楽活動を続行する。結婚を機に歌手活動を辞めて曲作りに専念したいと考えていたと本人は語っている[27]。
結婚以降、荒井由実ブームが下火になったことや改名の影響などもあり、78〜80年のアルバムの売り上げは10〜20万枚に留まるなど全盛期に比べ大幅に減退し、しばらくの間不振が続いた。但し、興業的には低迷期であったが、曲のクオリティは依然として高く、現在でもメジャーである「埠頭を渡る風」「青いエアメイル」「DESTINY」「恋人がサンタクロース」などの楽曲はこの期間に制作されたものである。 その後、1981年6月のシングル「守ってあげたい」が1981年のシングル年間ランキング第10位のヒットとなり、第二次ブームが到来。その年のアルバム『昨晩お会いしましょう』は荒井由実期の最後のアルバム『14番目の月』以来5年ぶりの1位獲得となり、それ以降のオリジナルアルバムは、1997年発売の『Cowgirl Dreamin'』まで17枚連続でオリコン1位を獲得することとなる。
ブレッド&バター、松田聖子、小林麻美などへの楽曲提供の傍ら、1978年から1983年はオリジナルアルバムを毎年2枚リリースした。前述の「埠頭を渡る風」「青いエアメイル」「DESTINY」「恋人がサンタクロース」に加え「カンナ8号線」「真珠のピアス」「ダンデライオン〜遅咲きのたんぽぽ」「時をかける少女」などもこの頃制作された。また、リゾート地でのコンサートのスタイルをこの時期に確立した。
1979年以降はコンサートの大規模化が始まり、本物の象を登場させた「OLIVE」、マジックを取り入れた「MAGICAL PUMPKIN」、エレベータを設置した「BROWN'S HOTEL」、噴水ショー「SURF & SNOW」、30メートルの竜に乗った「水の中のASIAへ」など年々エスカレートしていった。最新機材の導入にも積極的であり、バリライトがまだ導入されていない時代に人力で再現したり、海外の歌手より早くインカムを付けてコーラスと一緒に踊って歌うなど世界的にも先駆けとなる演出をいち早く取り入れた[28]。当時のインタビューでも「レコードで儲けた分、コンサートで夢と一緒にファンの方にお返しするのが役目」と語っていた。
→詳細は「松任谷由実のコンサート一覧」を参照
1980年代頃は、他者への楽曲提供も積極的に行っており、旧知の仲である松本隆からの依頼で松田聖子の「赤いスイートピー」の作曲を引き受けている。引き受けるの際の条件として使用した変名が「呉田軽穂」である。作曲家としてではなく名前(知名度)で選ばれる事を嫌ったためであったが、夫の正隆が編曲者として実名でクレジットされており、松任谷の作曲であることはすぐに知られるようになった。以降聖子に対してシングル曲を次々と提供しヒットさせており、他者の楽曲提供の際にも呉田軽穂の変名を使うようになった。
第二次ブームと90年代、『シャングリラ』
1981年に端を発する第二次ブーム以降、アルバムの売り上げは高水準に保たれ、若干の増加傾向の中、おおよそ50〜70万枚で安定的に推移していた。その中で1988年のアルバム『Delight Slight Light KISS』の売り上げが、前年発売のアルバム『ダイアモンドダストが消えぬまに』の77万枚から、158万枚と一気に約2倍のセールスへと急増し、自身初となるアルバム年間ランキング1位を獲得した。この年の音楽界は松任谷由実の独走状態となり、同アルバムは次作が発売されるまでの約一年間、オリコンチャートにランクインし続けることとなった。また翌1989年の『LOVE WARS』、1990年の『天国のドア』と 3作品連続で年間1位を獲得。特に『天国のドア』では、当時の日本のアルバム最高売上記録を約10年ぶりに更新し、史上初のアルバム200万枚出荷を記録[29]。翌1991年発売の『DAWN PURPLE』に至ってはオリコン史上初の初動ミリオンを達成する[30]など、第三次ブームが到来した。以降、1995年の『KATHMANDU』までの80年代後半から90年代半ばにかけてオリジナルアルバム8作連続のミリオンセラーを獲得する。
1985年以降の「バブル景気」時代、人気の高かったスキーを題材にした映画『私をスキーに連れてって』(1987年)の主題歌と挿入曲を担当したこともあり、「若者のカリスマ」、「恋愛の教祖」などと呼ばれるようになった[31]。
当時比較されがちであった、中流以下の地方の若者に人気のあった中島みゆきの作風とは一線を画し、「中流以上の育ちじゃないとわからない世界観」、「中産階級の手に届く夢」(当時の音楽ライター[誰?]による表現)を歌って、90%以上の日本人が「自分を中流と思っている」という、一億総中流かつ上昇志向のバブル時代に沸く時代の波に乗った。
1990年代のバブル崩壊後は精神世界や民族音楽にも着目するようになり、「満月のフォーチュン」「DAWN PURPLE」「真夏の夜の夢」「砂の惑星」「春よ、来い」「輪舞曲」などを作曲する。
1993年、TBS系列ドラマ『誰にも言えない』主題歌となった「真夏の夜の夢」はシングルで自身初のミリオンセラーとなり、翌1994年発売の「Hello, my friend」「春よ、来い」も続けてミリオンセラーを記録、 3作品連続でのミリオンセラーとなった。また、同年末発売のアルバム『THE DANCING SUN』はオリジナルアルバムとして自己最高の217万枚を売り上げるなど、第四次ブームと呼べる年となった。
1996年、荒井由実名義でのセルフカバーシングル「まちぶせ」を発売。また、当時の仲間のミュージシャンを集めて、『Yumi Arai The Concert with old Friends』を開催した。このライブ・アルバム発売に伴い、年末リリースのアルバムが数か月遅れた。これ以降、恒例となっていた活動サイクル(冬のアルバム発売〜夏までツアー)が若干緩やかになった。
1998年には松任谷由実時代以降のベスト・アルバム『Neue Musik』が 380万枚を売り上げ、自身が発表した全作品の中で最大の売上を記録している。
1999年にはロシアのサーカスチームとコラボレートしたコンサート『シャングリラ』を開催。同コンサートは2003年に『シャングリラII』、2007年にはシリーズ最後を飾る『シャングリラIII』として開催された。『シャングリラ』3回の総制作費は120億円以上[32]、観客動員数は100万人。
2000年代 - 近年の活動
国立国語研究所の調査によると、松任谷由実および中島みゆきの歌詞中の外国語割合は2000年以降減っており、日本語回帰傾向となった[33]。
2005年、第56回NHK紅白歌合戦に松任谷由実 with Friends Of Love The Earth名義で初出演。それ以前は「家でおせち料理を作るから」という理由で出場を辞退していた。2011年春には、NHK『SONGS』の企画で新たにレコーディングされた「(みんなの)春よ、来い」第1弾を5月に配信、11月には第2弾「(みんなの)春よ、来い 2011年秋編」、2012年3月には「(みんなの)春よ、来い 2012」を配信。収益のすべてが東日本大震災の被災地へ寄付された。
2012年、荒井由実時代・松任谷由実時代を通じたベストアルバム『日本の恋と、ユーミンと。』がオリコンチャートにて初登場1位となり、累計でのCDアルバム売り上げ枚数が 3,000万枚を突破、ソロアーティストならびに女性アーティスト初の記録となった[34]。
2012年には帝国劇場にて『ユーミン×帝劇』を開催[35]。その後、2014年、2017年にも演目を変えて開催した。
2013年、デビュー以来所属していたレコード会社・(東芝音楽工業→東芝EMI→)EMIミュージック・ジャパンの吸収合併に伴い、ユニバーサルミュージックへと自動的に転籍した。
同年、「岩谷時子賞」を受賞(岩谷時子存命中最後の受賞者となった)[38]。
2015年、石川県観光ブランドプロデューサーに就任[39]。
2016年には38枚目のオリジナルアルバム『宇宙図書館』がオリコンチャートにて初登場1位を獲得。
2017年、東京芸術文化評議会委員に就任。世田谷区名誉区民[40]。
2018年にはベストアルバム『ユーミンからの、恋のうた。』がオリコンチャートにて初登場1位を獲得。また同ベストアルバムとともに、前ベストアルバム『日本の恋と、ユーミンと。』が8位にランクインし、ランキングトップ10に2作同時ランクインすることとなった。
2018年9月には、荒井由実時代を含めたほとんどのアルバムとシングルのサブスプリクション配信が開始された[注 3]。
2019年8月23日、公式YouTubeチャンネルで歴代ミュージック・ビデオの内、33作品が公開された[42]。
同年12月6日にはLGBTQ支援を掲げた大型音楽イベント『LIVE PRIDE』に出演[43]。
2020年12月1日には、4年ぶりのアルバム『深海の街』を発売し、2021年9月30日からそれに連動した全国60公演に及ぶコンサートツアー『深海の街』を開催した。
2022年10月4日には、デビュー50周年記念としてベストアルバム『ユーミン万歳!』を発売。オリコンチャートにて、 2週間連続1位を達成。これにより、自身の持つ「ソロアーティストによるアルバム1位獲得作品数」における歴代1位記録を25作に更新し、オリコン史上初となる 1970年代から2020年代の6年代連続でのアルバム1位獲得を達成。また「アルバム1位獲得最年長アーティスト」記録において、歴代で2位、女性アーティストとして歴代1位となった[44] [45]。(2022年11月現在)
同年、シンガーソングライターとして史上初となる文化功労者に選出[46] [47]。これに対して松任谷はコメントを発表した[注 4] [48]。
2023年9月14日、「オリコン週間アルバムランキング」にて『ユーミン万歳!〜松任谷由実50周年記念ベストアルバム〜』が1位を獲得。オリコン史上初となる「1970年代、1980年代、1990年代、2000年代、2010年代、2020年代」の6年代連続でアルバム1位獲得を達成。この記録が『Most consecutive decades with a No.1 on the Japanese albums chart』(日本のアルバムチャートで1位を連続で獲得した最多ディケイド数)として、ギネス世界記録に認定[49]。
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発言
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2022年12月15日に日本テレビで放送された『世界一受けたい授業2時間SP』で、今後の大きな夢として「羽田空港の名称をユーミン空港にすること」と語っている[50]。
ディスコグラフィ
要約
視点
オリジナルアルバム
ベストアルバム
コラボベストアルバム
セルフカバーアルバム
ライブアルバム
ボックス&特別企画盤
非公式アルバム
シングル
※順位は全てオリコンの発表に基づく。
配信楽曲
アルバム先行配信
コラボレーション
ビデオ
ミュージックビデオ
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コンピレーション・アルバム
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他アーティスト作品への参加
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オリコン記録
- アーティスト総売上(歴代8位の4004万枚)
- アルバム総売上(歴代3位、ソロ&女性1位の3135万枚)
- アルバム1位獲得数(歴代2位、ソロ1位の25作)
- アルバム1位連続獲得年数(歴代1位の18年)
- アルバム1位獲得最年長記録(歴代3位の68歳9か月『ユーミン万歳!』)
- アルバムTOP10獲得作品数(歴代2位、女性1位の50作)
- アルバム年間TOP10獲得作品数(歴代1位の20作)
- アルバム年間TOP10連続獲得年数(歴代1位の14年)
- シングル同時TOP100獲得作品数(歴代2位の16作)
- 10年代1位獲得数(歴代1位の6回〈1970・1980・1990・2000・2010・2020年代〉)
- 史上最長キャリアでのアルバムミリオン突破(歌手キャリア45年11ヶ月(「日本の恋と、ユーミンと。」))
- アルバムミリオン獲得作品数(歴代3位、ソロ1位の10作)
- 日本人アーティストとして初めてのアルバム200万枚突破:天国のドア
- オリコン史上初のアルバム初動ミリオン:DAWN PURPLE
- 歴代アルバム売上15位:Neue Musik
- アルバム年間1位獲得作品:Delight Slight Light KISS(1989年間)、LOVE WARS(1990年間)、天国のドア(1991年間)
- 女性最多となるアルバムミリオン「通算10作」、アルバム首位「通算25作目」の記録を持つ。オリコン史上初の「1970・1980・1990・2000・2010・2020年代」と6つの年代連続でアルバム売上首位を獲得(歴代1位)。桑田佳祐、山下達郎(2人とも1980・1990・2000・2010・2020年代)が保持していた記録を塗り替えた。
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タイアップ一覧
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ライブ
→「松任谷由実のコンサート一覧」を参照
アーティストへの提供曲
荒井由実
呉田軽穂
松任谷由実
アーティストによるカバー
要約
視点
タイアップのあった曲のみ
→詳細は「松任谷由実のカバー曲」を参照
出演
要約
視点
ラジオパーソナリティー
ジャパンエフエムネットワーク(JFN)の系列番組では、1982年の担当開始から枠がなくなったことがない。
テレビ番組
NHK BS
日本テレビ系列
TBS系列
フジテレビ系列
テレビ朝日系列
その他
NHK紅白歌合戦出場歴
映画
CM
書籍
著書・写真集
連載
関連本
アイテム
受章歴
受賞歴
- 1976年
- 第9回日本レコードセールス大賞 セールス大賞
- 1989年
- 第22回日本レコードセールス大賞 セールス大賞
- 1991年
- 第5回日本ゴールドディスク大賞 アーティスト・オブ・ザ・イヤー[65]
- 1994年
- 2006年
- オリコン40周年記念表彰式 WE LOVE MUSIC AWARD 2部門計2タイトル
- かなざわごのみ 2006 着こなし上手な美人
- なみある?サーファーズ・アワード
- 2013年
- 第4回岩谷時子賞
- 2017年
- SAJ SNOW AWARD 2017 SNOW文化功労賞
- 世田谷区名誉区民顕彰
- 2018年
- 第66回菊池寛賞
- 2019年
- VOGUE JAPAN WOMEN OF OUR TIME
- 2020年
- ananAWARD 50th大賞
- 2022年
- 第40回毎日ファッション大賞 話題賞
- 第64回日本レコード大賞 特別顕彰
- 2023年
- 第37回日本ゴールドディスク大賞 特別賞
- ギネス世界記録 Most consecutive decades with a No.1 on the Japanese albums chart
関連項目
- ジャパンエフエムネットワーク - 1982年5月の『サタデー・アドベンチャー』開始以来、担当枠が消滅したことが一度もない。
- シー・ユー・チェン - ニックネーム「ユーミン」の名付け親。
- フランソワーズ・アルディ - 荒井由実名義のアルバム『MISSLIM』収録の「私のフランソワーズ」はアルディを歌ったものであり、さらに「まちぶせ」はアルディの「さよならを教えて」を翻案した作品。
- 四畳半フォーク - 松任谷由実が命名者だと言及されることがあるが、より古くから存在する語。
- 角川春樹 - 第二次ブームの立役者。松任谷曰く「ブームが落ちたときに引っ張り上げてくれた」とのこと[68]。
- 安倍晋三 - 親交があった[69]。同い年でもある。
脚注
外部リンク
Wikiwand - on
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