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黒獅子勇蔵
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黒獅子 勇蔵(くろじし ゆうぞう、1939年2月2日 - 没年不明)は、大阪府泉南郡岬町出身で、二所ノ関部屋に所属した大相撲力士。本名は尾崎 勇(おざき いさむ)。最高位は東前頭12枚目(1963年9月場所)。現役時代の体格は174cm、95kg。得意手は右四つ、寄り[1]。
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来歴・人物
岸和田市立産業高校在学時は、相撲部で活躍した。高校を卒業後上京し、元大関・佐賀ノ花が率いる二所ノ関部屋に入門。1957年3月場所で初土俵を踏んだ[1]。当初の四股名は、本名でもある「尾崎」。
体格には余り恵まれていなかったが、速攻と寄りを武器に着実に出世し、1962年9月場所で十両に昇進した。そして同場所より「黒獅子」に改名したが、この四股名の名付け親は同部屋の横綱・大鵬や弟弟子の麒麟児(後の大関・大麒麟)の時と同じく、二所ノ関親方(元・佐賀ノ花)であった。
その後、1963年7月場所で新入幕を果たす[1]も、手首の怪我に見舞われた事によって僅か2場所で幕内の座から陥落。
以降も負傷の影響で不本意な成績が続き、現役晩年は幕下50枚目まで番付を落として1965年1月場所後、25歳という若さで廃業した[1]。
廃業後は帰郷して寿司屋を営んでいたが、大鵬親方からの誘いを受け、1972年より暫くの間大鵬部屋でコーチとして後輩達を指導した。
その後は、再度故郷に戻り、建築業に従事したという。
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人物・エピソード
- 三瓶山、大蛇川、大麒麟などと共にいわゆる「大鵬の付け人七人衆」の1人として当時の相撲界では名前が知られていた[2]。
- 大鵬とは麻雀仲間同士でもあったが、大鵬は麻雀が弱かったため4人麻雀を行った時に大鵬に1人負けさせた事もある[2]。
- 1963年4月19日の昼間、稽古を終えて風呂で汗を流した後の大鵬、黒獅子、玉嵐、顔見知りの記者達が、豪華なステレオから流れる歌を聴きながら雑談に花を咲かせた。歌は鉄砲光三郎のヒット曲、『河内音頭』。とある部分をとらえ、大鵬が、河内出身ではないが隣接の泉州生まれの黒獅子に向かって「のう、黒獅子よ、歌のような情熱でいっちょうやってみんかいな。すべてが可能になるらしいぜ、ハッハッハー」と冷やかした。そんなところ大鵬の元へ、スズランの花が届けられた。郷土でスズランに囲まれて育っていた大鵬は香りを楽しんでいたが、黒獅子は「ユリか蘭のような強烈な香りではないね。これは香水になりそうもない」と混ぜ返した。だが、同じ北海道出身の玉嵐は「でもほら、花の香りだけじゃなく葉のほうの香りも強いだろう。これがスズランのいいところさ。ユリや蘭はプーンと花そのものの香りが強すぎて、草花という感じがしない」とやり返した[2]。
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主な戦績
- 通算成績:223勝191敗6休 勝率.539
- 幕内成績:11勝19敗 勝率.367
- 現役在位:47場所
- 幕内在位:2場所
- 各段優勝
- 序ノ口優勝:1回(1957年5月場所)
場所別成績
幕内対戦成績
改名歴
- 尾崎 勇(おざき いさむ、1957年5月場所-1962年7月場所)
- 黒獅子 勇蔵(勇藏)(くろじし ゆうぞう、1962年9月場所-1965年1月場所)
参考文献
- 『戦後新入幕力士物語 第2巻』(著者:佐竹義惇、発行元:ベースボール・マガジン社、1990年、p571・p575-p577)
脚注
関連項目
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