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1992年の全日本F3000選手権
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1992年の全日本F3000選手権は、1992年(平成4年)3月7日 - 8日に鈴鹿サーキットで開幕し、同年11月14日 - 15日に鈴鹿サーキットで閉幕した全11戦によるシリーズである。
1992年の全日本F3000選手権 | |
Previous: 1991 | Next: 1993 |
概要
バブル景気の崩壊を背景に、前年に比べ出走台数が減少した。9人のドライバーが優勝するという混戦の中、優勝は1度のみながら上位でのポイントを着実に重ねたマウロ・マルティニ(イタリア)が、終盤の鈴木利男の追い上げを凌ぎシリーズチャンピオンとなった。第4戦鈴鹿で1989年のシリーズチャンピオンである小河等が事故死した。
エントリーリスト
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スケジュール及び勝者
シリーズポイントランキング
要約
視点
ドライバー部門
- ポイントシステム
※ベスト8戦が有効得点
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全日本F3000の予選用タイヤについて
全日本F3000シリーズは、エイボン製のワンメイクタイヤを使用する国際F3000シリーズに対し、ブリヂストン、ダンロップ、横浜ゴムの各メーカーによる激しいタイヤ開発競争が行われていたことが、大きな技術的特徴であった。
F1でも1991年まではグッドイヤーとピレリによってタイヤの開発競争が行われていたが、1991年限りでピレリが撤退。1992年シーズンからグッドイヤーのワンメイクとなり、レギュレーションにより予選用タイヤも禁止された。
F3000マシンはF1マシンと比べて、シャシーがコンストラクターによる量産品であること、回転数が9,000回転までに制限された3Lエンジンであること等、マシン性能の上限はF1とかなり差があるものだった。しかし上述のF1のタイヤを巡る状況の変化により、これまで通り予選用タイヤを使用する全日本F3000との予選タイムは急速に縮まった。開催時期が近い1992年F1日本GP(10月23-25日開催)と同じく鈴鹿サーキットで3週後に行われた全日本F3000最終戦(11月14-15日開催)の予選タイムの例で見ると、F3000最終戦のポール・ポジションタイムは1分42.934秒でロス・チーバーが記録した。このタイムを同年のF1日本GPの予選順位に当てはめると1分42.824秒のタイムを出した15位のフェラーリのジャン・アレジと1分43.029秒を記録し16位に入ったフットワーク無限ホンダの鈴木亜久里の間に割って入ることになり、チーバーのレイナードは無限MF308エンジン搭載車であるため、F1の無限ホンダエンジン搭載車の鈴木亜久里よりもF3000の無限エンジン搭載車の方が良いラップタイムを記録した事実が残っている。
さらにF3000最終戦予選2位の服部尚貴(1分43.401秒)と予選3位の黒澤琢弥(1分43.903秒)が、F1日本GP予選25位のマウリシオ・グージェルミン(1分44.253秒)のタイムを上回り、F3000最終戦予選24位の舘善泰(1分46.708秒)のラインまでがF1日本GP予選26位のエマニュエル・ナスペッティ(1分47.303秒)のタイムを上回っており、全日本F3000マシンの殆どがF1日本GPの決勝グリッド最後尾のマシンより速いラップタイムを記録していたことが確認できる。
1991年に全日本F3000にスポット参戦したミハエル・シューマッハがレース用タイヤと1周当たり3秒もタイムが違うと驚き[1]、長谷見昌弘が信じられないくらい食いつく[2]と語った予選用タイヤはF1と全日本F3000のマシン性能の差を埋めてしまうほどの性能であった。
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トピックス
- 鈴木利男のマシンにニスモが主に足回り面について技術支援を行った。タイヤをヨコハマからブリヂストンに変更した第5戦以降成績も向上、2勝を挙げタイトル争いに加わる活躍を見せた。
- 第5戦オートポリスで童夢に乗るマルコ・アピチェラが優勝。童夢が国産シャシーとして初のF3000優勝を記録した。
- フォルカー・ヴァイドラーが第6戦菅生でシーズン2勝目を挙げポイント・ランキングトップに立った後、前年のルマン24時間レース参戦の頃から発症していた耳鳴りの悪化によりドクターストップがかかり休養した(その後引退)。第9戦鈴鹿からヴァイドラーの後任にハインツ=ハラルド・フレンツェンがノバのドライバーに起用された[3]。
- 第9戦鈴鹿で松本恵二のマシンに、童夢・オムロン共同開発による電気式のパワーステアリングが装備された。
- 前年秋にブラバムとの契約締結が発表されF1参戦が予定されていた中谷明彦だったが、FISAからスーパーライセンスが発給されず、92年も引き続き全日本F3000を戦うことになった。中谷によると、スーパーライセンスの申請書に対しての返信に「あなたの次のステップはインターナショナルF3000です」とあったことから、FISAがインターナショナルF3000と全日本F3000のヒエラルキーを明確化させようとしていたのではないかと中谷は推測している[4]。
- 第3戦MINEで星野一義が予選落ちする「事件」があった。この年の星野のチームはチーフエンジニア不在で、星野がチーフエンジニアを兼務したが成績は低迷した。星野は前年にヒーローズレーシングの片山右京が使用してタイトルを獲ったケン松浦チューンのフォードDFVが性能面で自分が使っている無限・MF308を上回っていると考え、シーズン途中で搭載エンジンメイカーを変更する決断に至った[5]。開幕戦では星野のエンジンにのみバタフライ式スロットルバルブ、ダブルインジェクター付きのエンジンを供給される[6]など事実上の「無限ワークス」として活動しており大きな決断だったが、DFVエンジンへの変更も結果に結びつかず1983年以来9年ぶりの国内トップフォーミュラ未勝利に終わった。
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脚注
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