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1991年の全日本F3000選手権

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1991年の全日本F3000選手権は、1991年(平成3年)3月2日 - 3日鈴鹿サーキットで開幕し、同年11月29日 - 30日富士スピードウェイで閉幕した全11戦によるシリーズである。

1991年の全日本F3000選手権
Previous: 1990 Next: 1992

概要

1980年代後半から続いていたバブル景気を背景に、昨年に続き多くの参加台数を記録した。片山右京がシリーズチャンピオンとなり、翌年にはフォーミュラ1(F1)へと進出した。また、後にF1最多チャンピオンとなるミハエル・シューマッハがスポット参戦した。

エントリーリスト

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※タイヤ:B ブリヂストンD ダンロップY 横浜ゴム

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スケジュール及び勝者

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(注1)悪天候のため決勝中止。
(注2)9月7日 - 8日の開催予定だったが悪天候のため決勝が順延。インターF3リーグと併催。

シリーズポイントランキング

要約
視点

ドライバー部門

ポイントシステム
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※ベスト7戦が有効得点

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トピックス

  • 童夢、ラルトが全日本F3000にシャシー・コンストラクターとして進出し、それぞれ2度の表彰台を得た。
  • 開幕戦鈴鹿2&4レースは、オートバイ全日本ロードレース選手権と併催された。
  • レイナードは前年の不振が祟り、開幕戦はロス・チーバーの1台のみとエントリー数を激減させた。
  • ローラのニューマシンT91/50はサスペンションに問題を抱えていたことから、T91/50の使用を見合わせT90/50をモディファイして使い続けるチームが多く見られた[2]
  • 開幕戦のエントリー数が前年を上回る35台に達し、予選の厳しさは前年を上回るものとなり実績あるドライバーでも予選落ちする状況となった。前年のイギリスF3選手権で、ミカ・ハッキネンとタイトルを争いランキング2位に入った実力者のミカ・サロですら4度の予選落ちを味わった。
  • レイトンハウスは不正融資事件の煽りを受けて、第8戦の予選(決勝は雨で延期)を以てF3000から撤退した。
  • 第6戦・菅生にスポット参戦し2位に入賞したミハエル・シューマッハが、メルセデス・ベンツの後押しを受けF1第11戦ベルギーGPでF1デビューした。
  • 第7戦からジャッド・エンジンが全日本F3000に進出した。
  • ジョニー・ハーバートはシーズン途中から全日本F3000と掛け持ちでF1のロータスでも走ることになった。
  • 1990年シーズン中頃から使用が噂されていた特殊燃料の問題が表面化した。JAFRA(全日本F3000レーシングチームアソシエーション)が開幕戦で使用自粛の申し合わせを行い[3]、第3戦で再度禁止の通知を行った[4]。しかしその後も特殊燃料の使用の噂が絶えなかったらしく、第10戦から2チーム1組で給油状況を相互監視する実効措置がとられた[5]
  • これまでメンテナンスガレージとして活動し、星野一義(1987、1990年)、小河等(1989年)のタイトル獲得に貢献してきたセルモがチームを結成しエディ・アーバインとともに全日本F3000に進出。第4戦・美祢で初優勝を記録した。
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脚注

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