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鎌田祐哉
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鎌田 祐哉(かまだ ゆうや、1978年11月30日 - )は、秋田県秋田市[1]下新城出身の元プロ野球選手(投手)。
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経歴
要約
視点
プロ入り前
秋田経法大附属高校3年時に、第78回全国選手権に出場[1]。この時のエースは金沢博和(後にJTへ進む)で、鎌田は2番手だった[1]。全国選手権では初戦で波佐見高校に敗れている。
卒業後は早稲田大学へ進学。2年の春にエース格となり[1]、1999年の3年時、六大学春季リーグ戦で優勝に貢献しベストナインに選ばれる。大学選手権では初戦を完封し、決勝は先発したが秋田北中時代の1年後輩石川雅規(青学大)と投げ合い、4年藤井秀悟が救援したが敗れた。また、1学年上の藤井秀悟とともに日米大学野球日本代表に選ばれた。東京六大学リーグでは、通算54試合登板、13勝17敗、防御率2.40、231奪三振の成績であった[1]。
2000年度ドラフト会議にてヤクルトスワローズから2位指名を受け、入団[1]。背番号は20。同期入団には坂元弥太郎、畠山和洋らがいる。
ヤクルト時代
2001年は、4月3日の対読売ジャイアンツ戦で一軍初登板を果たす。9月26日の対中日ドラゴンズ戦で初先発を果たし、6回無失点で初勝利を挙げた。8試合に登板し、1勝0敗、防御率0.59だった。
2003年は、2完封を含む6勝をあげて先発ローテーションに定着する。
2004年は前年の活躍から期待されたが、16試合の登板で1勝、防御率も6点台と不振に陥った。
2005年は、プロ入り初の一軍未登板に終わった。
2006年は、一軍登板復帰を果たしたが、防御率は5点台だった。
2007年は、開幕前に右肩腱板不全断裂という負傷を負ったもののシーズン途中に復帰し、主に中継ぎとして22試合の登板ながら防御率1点台と復調の兆しを見せた。
2008年は、二軍で抑えとして結果を残し、一軍では中継ぎとして16試合に登板するも、再び防御率6点台を記録。期待される投球はできなかった。
2009年は、一軍での登板数は9試合にとどまり、活躍はできなかった。
2010年はヤクルトでの一軍出場はなかった。
楽天時代
2010年6月14日に渡邉恒樹との交換トレードで東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍。背番号は渡邉が着けていた34。しかし楽天でも一軍登板はなかった。
2011年も一軍登板はないまま、10月9日に戦力外通告を受けた[2]。
その後、楽天の首脳陣のミスリードによる故障発生であることがわかり、フロントから再契約の打診を受けていたところ、同年オフに監督就任した星野仙一が、『右ピッチャーはこれ以上いらない。』と鎌田との再契約を拒否した為、正式に戦力外となった。
台湾時代
2012年シーズンから中華職業棒球大聯盟・統一セブンイレブンライオンズに入団。先発ローテーション入りし、開幕から11連勝を含む16勝を挙げ、勝投王(最多勝利)のタイトルを獲得、ベストナインとゴールデングラブ賞に選ばれた。しかし後半戦の内容が悪かったことや、台湾シリーズで結果を残せず、2012年シーズン限りで退団となった。
引退後
2013年、年明けに再契約のオファーも届いてはいたが、本人のブログにて現役引退を表明し、4月から城北不動産にて会社員として勤務し営業を担当[3]。同年7月14日、統一からの招待で台湾・台南にて引退セレモニーを実施した。
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選手としての特徴・人物
150キロ近い直球にカットボール、縦横2種類のスライダーとチェンジアップ、カーブが武器。 デジタルメディアやアニメ観賞が趣味であり、愛機は2003年頃からHDDを交換しながらも使い続けるMacとiPad。バス移動がほとんどの台湾では、車中、ダウンロードした音楽やアニメで時間を過ごしてきた。お気に入りは『交響詩篇エウレカセブン』。
詳細情報
年度別投手成績
- 2012年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
- CPBL
- 最多勝利(2012年)
表彰
- CPBL
- 月間MVP:2回 (2012年3月、5月)
- ベストナイン:1回 (2012年)
- ゴールデングラブ賞:1回(2012年)
記録
- NPB投手記録
- 初登板:2001年4月3日、対読売ジャイアンツ1回戦(明治神宮野球場)、5回表に2番手で救援登板、1回0/3を1失点
- 初先発・初勝利:2001年9月26日、対中日ドラゴンズ26回戦(ナゴヤドーム)、6回1安打無失点
- 初奪三振:同上、1回裏に山崎武司から
- 初完投勝利・初完封勝利:2003年6月22日、対横浜ベイスターズ14回戦(明治神宮野球場)
- 初ホールド:2007年8月14日、対横浜ベイスターズ11回戦(山口・西京スタジアム)、3回裏1死に2番手で救援登板、3回1失点
- NPB打撃記録
- 初安打・初打点:2001年9月26日、対中日ドラゴンズ26回戦(ナゴヤドーム)、6回表に山本昌から左前適時打
背番号
- 20 (2001年 - 2009年)
- 48 (2010年 - 同年途中)
- 34 (2010年途中 - 2011年)
- 29 (2012年)
出典
関連項目
外部リンク
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