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『城のある町にて』(しろのあるまちにて)は、梶井基次郎の短編小説。「ある午後」「手品と花火」「病気」「勝子」「昼と夜」「雨」の6章の挿話から成る。幼い異母妹の死を看取った後の不安定な感情や悲しみを癒すために訪れた、姉夫婦一家の住む三重県の松阪町での実体験を題材にした私小説的作品である[1][2][3][4]。基次郎の代表作の一つでもあり、作中の「今、空は悲しいまで晴れてゐた」という一文は有名である[5][6]。
1925年(大正14年)2月20日発行の同人誌『青空』2月号(第1巻第2号・通巻2号)に掲載された[1][7]。その後、基次郎の死の前年の1931年(昭和6年)5月15日に武蔵野書院より刊行の作品集『檸檬』に収録された[7]。同書には他に17編の短編が収録されている[8]。
幼くして亡くなった妹の死からまだ五七日も過ぎぬ夏の盛り[注釈 1]、この城下町にやって来た峻は、静かな気持で妹の死を考えていた。この町は峻の姉夫婦が住んでいる土地で、近くには城跡(松阪城跡)があった。その城跡に登った石垣のベンチから一望できる風景は、妹を失った実感を強く刻むと同時に、その苦しみを徐々に癒し、都会に倦んだ峻の心に敬虔で新鮮な感慨を与えた。
悲しいまでに晴れた空の下、甍を並べた町並みの中で人々は暮していた。I湾(伊勢湾)の海のパノラマの眺め、城跡の木立で文法の練習をしているように鳴く法師蝉、昆虫と戯れる子供ら、夜になると活気づく青年たち、秋が近づく自然の移り変わりを感じながら、峻はそれらを眺めた。
ある晩、城跡の夜散歩から戻った峻は、姉夫婦に手品見物に誘われ、姉の娘・勝子、義兄の妹・信子の5人で芝居小屋(相生座)に出かけた。印度人の披露する悪ふざけの笑いの下品な余興や三流手品に峻は不愉快になった。つまらない手品を見ながら、峻は今しがたの城跡のことを思い出した。
それは、夜景の遠くかすかに見えた星水母のような花火の美しさと、たまたま隣に来た少年たちの会話だった。花火を見て、「花は」と1人が訊くと、誰かが「Flora」と答えた[注釈 2]。峻はその「Flower」とは言わなかった子供とパノラマが、どんな手品師も叶わない素晴らしい手品だったと思った。
ある日、腎臓を悪くして姉が寝込んだ。その時に峻は義兄から、北牟婁郡に住んでいた頃に勝子が近くの川で溺れ死にそうになった話を聞かされた。それは姉の留守中、義兄の祖母(70歳すぎ)が勝子を連れて川に茶碗を洗いに行った時だった。義兄は心臓脚気で臥せっていたが、叫び声で異変に気づき、川に流される勝子を危機一髪で助けた。
それ以来、孫の嫁(姉)に済まない気持を抱いた義祖母はボケ始め、ずっと「よしやんに済まん」と言い続け1年後に死んだという。そんな話を聞いた峻は、勝子のお守りをしようとしてそんな目に遭った義祖母の運命が何か惨酷なものに感じられた。
ある曇った日、峻は部屋の窓から原っぱの方を眺めていると、遊んでいる子供たちの中に、男児に倒される勝子を見つけた。子供たちは何か荒い遊びをしているようで、1人の男児が順番に並ぶ女児を次々と引っ張って倒していた。日頃勝気な勝子は他の女児よりも余計にその男児から手荒に意地悪をされているようだった。
峻は自分が見ていることを男児に気づかせるために注視していたが、勝子が平気な顔で耐えているのか、わざと手荒にしてもらいたいのか解らなかった。その晩の夕食の後、勝子は指に刺さった棘のため、激しく泣いて姉を手こずらせた。峻にはその泣き声が、昼間のやせ我慢を爆発させている悲しいものに感じられた。
峻はある日、城の崖の蔭にある大きな井戸から汲んだ水で洗濯をする若い女たちを見ていた。その様子はとても健康的で幸福な眺めであった。その平明で単純な世界から、峻は国定教科書にあった唱歌の詩や、明るい子供の丸顔の挿絵を思い出し、憧憬を感じた。
そんな「食ってしまいたくなるような風景」への愛着や、新しい生活への想像で眠れない夜が時々訪れると、昼間の峻はその疲労と興奮で、熱い頬を楓の樹の肌に押しつけて冷やしたい衝動にかられたり、散文詩を葉書に書いたりした。
8月の終わり、信子が学校の寄宿舎に帰ることになった。荷物を行李に詰めて、近所で借りた乳母車で翌朝、停車場まで勝子も連れて義母が手伝って持っていくらしかった。峻は、今夜のうちに切符を買って先に荷物を送ってしまえばいいと助言し、自分が持っていこうと申し出たが、信子と義母は遠慮した。
峻は、義母と娘と姪の3人が連れ合って、乳母車で荷物を引いて停車場に向う夏の朝の風景を思い浮かべ、それを美しいと感じた。もしかしたら彼女たちは互いにそんな出発の朝の楽しさを思っているのではないかと空想した峻は、清らかな気持になった。
その夜、眠れない峻は雨の音や虫の声に耳をすませた。雨戸を開けて閾を上に座った峻は、雨で足を冷やした。雨の中、信子の着ていた浴衣が物干し竿にかかったままだった。信子がいつも着ていた浴衣を見ていると、彼女の体つきが浮んで来た。峻はまだ自分の頬が熱いのを感じ、再び夕立が来るのを待っていた。
基次郎には20歳下の異母妹・八重子がいた。八重子は父・宗太郎が実家で営んでいた玉突き屋の女性従業員に産ませた子供であった[10][11]。基次郎が第三高等学校(現・京都大学総合人間学部)理科甲類に通っていた1921年(大正10年)3月15日に八重子は誕生し、基次郎は春休みの4月に実家に帰省した時、初めて異母妹の存在を知りショックを受けた[10][11]。
梶井家に引き取られた八重子は家族に可愛がられ、西条八十の詩を暗誦するほどの利口な子に育った[12]。基次郎も、実家に滞在時にはこの異母妹をとても可愛がっていた[12][1]。しかし1924年(大正13年)7月2日、3歳の八重子は結核性脳膜炎で急逝[13][14][4]。その時の思いを基次郎は以下のように綴った[14]。
自身も結核の持病を抱えていた基次郎には八重子の死が心身にこたえ、大阪の酷暑もあり血痰が続き、病気がぶり返していた[16][17][2]。
基次郎は、八重子の死から約1か月後の8月から、姉夫婦がいる三重県飯南郡松阪町殿町1360番地(現・松阪市殿町)へ養生を兼ねてやって来た[18][1][2]。一緒に来た母・ひさと弟・良吉はすぐに帰り、基次郎だけ1人残って長く滞在した[18][7]。
姉夫婦の宮田家は松阪城跡が間近に見える場所にあり、2010年(平成22年)8月現在も当時のまま残されている[2]。松阪城内の西南にある搦手口から城を出て、御城番屋敷(屋根瓦が美しい長屋)に挟まれた道を下ったところにある松阪工業高等学校の正門前の四辻を左に曲がり、60メートルほど北東に進むと、その左手に六軒長屋があり、その長屋の左から三軒目が宮田家だった[2]。
姉・冨士は当時、松阪第二小学校の教員で、夫・宮田汎も松阪商業高校の体育教師をしていた[1]。同居家族には、2人の長女の寿子(当時6歳)と、汎の母親・よしがいて、夏休みであったため、汎の妹・ふさ(房子とも呼ぶ)が寄宿舎から帰省していた[1][2]。房子は鈴鹿郡亀山町(現・亀山市)の三重県女子師範学校に在学中で当時18歳であった[19][1][2]。
夕食後はよく姉夫婦と基次郎、房子の4人でトランプをした。音楽好きの基次郎はオルガンを弾きながら、太いバスで『椿姫』を原語で朗々と歌っていたという[19][1]。
なお、基次郎は姉一家が三重県北牟婁郡船津村字上里(現・紀北町)に住んでいた4年前の1920年(大正9年)8月にも、その地で転地療養したことがあった[12][10]。
宮田汎の妹・房子は、作中にも描かれているように性格の良い娘で、「誰からも好かれるほんとに素直でおとなしい人」であった[12]。基次郎は宮田家に滞在中、房子に淡い恋心を抱いていたとされ、姉・冨士は、「私たちは何も気付かなかつたが基次郎が房子に好意を持つていたようなことがあつたかもしれません」と語っている[12][1]。
房子は基次郎の第一印象を、大きなガッチリした体型で油気のない硬そうな毛を伸ばしていて、「こんな丈夫さうな体でどこが悪いのか」と思いつつ、時々基次郎が鼻をつまみながら肝油を飲み、紅しょうがをガリガリとかじっているのも見かけた[19][1]。基次郎は房子に積極的に話しかけることはなかった[19]。
ある朝私が用達から帰つて来ますと丁度頭の上に飛行機がとんでいて、朝寝坊の基次郎さんがねむさうな顔をしてまぶしさうに目をショボショボさせながら二階の窓からながめていました。その様子があまりおかしかつたので、下から何か二言、三言かけて笑いました。無口と言う程ではありませんでしたが、おしやべりをしない人で、用事以外に話をするような事はありませんでした。 — 奥田房子「基次郎さんのこと」[19]
房子が女子師範学校の寄宿舎に帰った後、基次郎は姉・冨士を通じて、島崎藤村の『おさなものがたり』の本を一冊贈った[19][1]。
宮田家の二階の奥の四畳半の部屋に泊った基次郎は、異母妹の死を静かな気持で考え、ほぼ毎日松阪城跡を散策し、風景のスケッチや町の人々や建物、植物や昆虫の仔細な様子を丹念に草稿ノートへ書き留めた[4][1][2]。
ノートには、姪の寿子を無意識に異母妹・八重子と間違えて笑われたことも記され、城跡から見下ろした鈴乃屋(本居宣長の旧居)の屋根のスケッチも残っている[2][4][3]。基次郎が松阪城跡から見た〈立派な井戸〉は、搦手口の御城番の井戸である[1]。
8月末に姉夫婦の家を発ち、大阪の実家に戻った基次郎は、9月初旬に京都に出向き、鴨川の河原の風景の中で再び心を解放しながら、そこに行き交う人々、人力車や自動車、測量士の打つ杭の音、材木屋が木材を削る鉋の音など、さりげない風景を言葉でスケッチした[4][1][2][7]。
『城のある町にて』の執筆作業に取りかかったのは、前作『檸檬』を仕上げて、荏原郡目黒町字中目黒859番地(現・目黒区目黒3丁目4番2号)の八十川方に下宿に引っ越した12月頃からと推察され[20][7][1]、翌1925年(大正14年)1月18日に完成させた[21][1][7]。
『城のある町にて』は基次郎の存命中に発表された作品の中では最も長く、比較的明るい作品である[22]。三島由紀夫はこの作品を、基次郎の小説の中で最も好きな作品だとしている[23]。
飯島正や浅野晃は、『城のある町にて』の描写の各所に映画的なカメラアングル(角度を変えて移動、ズームで近づく)が見られるとし、遠くに見える花火が上がるところなどなどを挙げている[24]。そして映画的な手法はダンテの『神曲』など古典にも胚胎していることなどを語りながら、基次郎の場合はそれよりもカラフルであり、色彩映画的だとしている[24]。
柏倉康夫は、『城のある町にて』の風景描写の特性を、「最初は無音だった梶井のパーンニング・ショットに、やがて音がついてくる」とし、蝉やコオロギの声、往診から帰ってくる医者のオートバイの音に反応する子供たちの〈ハリケンハッチのオートバ〉という喚声など[注釈 4]、その「音の伴奏が風景を一段と生彩のあるもの」にしていると評している[2]。
そしてその基次郎の「感性」が感知するものは単に、「目に見える静止した光景」だけではなく、「その光景が時間の経過とともにみせる、ごく微妙な変化」こそが、時や自然の移り変わりに敏感な基次郎の「心」を最も深く捉えたものであり、基次郎がこの土地で「視覚、聴覚、触覚のすべてを働かせ、さらには想像力を動員して、周囲をとことん堪能する術を会得しつつあった」と解説している[2]。
また、観察に没頭するだけでなく、法師蝉の鳴き声を〈文法の語尾変化〉のように聴き分けた瞬間から変貌する情景、以下のような子供たちの場面で、基次郎が「感覚の微妙なずれから生ずる、現実の歪曲」を楽しみ、それが「幻視者梶井の面目」だとし[25]、「感覚の一部が肥大して、それだけが機能する」という基次郎の特異な感性がこの作品にも看取され、「現実を一層興味深いものにしている」と評している[25]。
そして柏倉は、基次郎が惹かれる〈単純で、平明で、健康な世界〉の象徴である、井戸の水で洗濯に励む若い女たちの瑞々しい描写の場面や、京都の鴨川の河原のスケッチから鑑みられる基次郎の「観察者」としての立ち位置を、「結核という病のせいで、現実世界に関与できないという諦念と悲哀、そのためにいつしか現実を距離をおいて眺める地点」だと考察している[2]。
美しく健全なこうした生活は、かつては梶井のものでもあった。しかし胸を患い、その不安を退けるために、頽廃的な世界へ足を踏み入れてしまった者にとっては、もはや何くわぬ顔で自分のものとして生きるのが不可能な世界であることを、梶井はいやでも自覚させられている。それだからこそ、なお一層うらやましくも心ひかれる世界なのだ。
梶井は一個の観察者としてじっと目を注ぎつつ、それが不可能と知りつつ、その営みを共有しようとする。単純で平明な、生活にしっかりと根をおろした女たちのありさまが、かけがえもなく貴いものに思われるのだった。 — 柏倉康夫「評伝 梶井基次郎――視ること、それはもうなにかなのだ」[2]
なお、印度人の三流手品や、観客をからかう下品な笑いや不遜な態度に腹を立てた峻(基次郎)が、次第に心を鎮めて〈不愉快な場面を非人情に見る、――さうすると反対に面白く見えて来る――その気持がものになりかけて来た〉という心構えを習慣づけていることについて柏倉は、基次郎が愛読していた夏目漱石の『草枕』の中の、「おのれの感じ、其物を、おのが前に据ゑつけて、其感じから一歩退いて有体に落ち付いて、他人らしく之を検査する余地さへ作ればいゝのである」という意識の転換からの影響ではないかと考察し[25]、その〈非人情〉の境地は「詩的な態度を維持することにほかならない」としている[25]。
阿部昭は、『城のある町にて』で梶井が表現した〈今、空は悲しいまで晴れてゐた〉という文章について、今日ではこういう類の表現法は珍しくはなく、誰もが簡単に書くであろうが、その巷に溢れている類似の文章には、もはや「梶井が希求した精神」が見失われ、「通俗化した修辞のパターンだけが普及した」ものになってしまったと考察している[5]。
松阪城跡には、1974年(昭和49年)8月に建立された『城のある町にて』の文学碑がある[7][26]。基次郎の友人だった中谷孝雄の書で、以下の有名な一節が刻まれている[3]。
また、1978年(昭和53年)5月14日には、三重県北牟婁郡海山町(現・紀北町)の上里小学校の校庭にも文学碑が建立された[27]。この小学校は、1920年(大正9年)8月頃に姉・冨士が勤務していた学校で、冨士が受け持ちの生徒に、「こんな弟があるのじゃ」と基次郎の写真を見せていたため、転地療養に来て川にいる基次郎を見た生徒は、それが宮田先生の弟だとすぐに判ったという[10]。この碑には、北牟婁郡に言及する以下の一節が、新仮名遣いに直されて刻まれている[27][28]。
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