Loading AI tools
日本の東京府東京市にあった大正時代の企業、昭和時代の鉄道事業者 ウィキペディアから
東京高速鉄道(とうきょうこうそくてつどう)
東京高速鉄道株式会社(とうきょうこうそくてつどう、旧字体:東京髙速󠄁鐵道󠄁株式會社[注釈 1])は、現在の東京地下鉄銀座線の新橋駅 - 渋谷駅間を建設・運営した鉄道事業者である。
もともと東京市(1943年(昭和18年)7月1日、東京府と合同して東京都になる)は、市内交通の公営主義に基づき地下鉄をも市営として建設する計画を持っており、1925年に内務省告示第56号で位置づけられた地下鉄5路線のうち4路線の免許を得ていたが[注釈 2]、予算の問題から実現が遅れていた。しかし一部の企業家は、東京地下鉄道が好成績を収めているのを見て十分な採算性があると考え、東京市の持つ地下鉄建設免許の譲渡を請願した。それを東京市が認めたため、1934年(昭和9年)9月5日、建設運営を行う会社として東京高速鉄道が設立された[2]。当初は前年までに会社を設立することが免許譲渡の条件[3][4]とされていたが、資金が集まらなかったため延期され、東京横浜電鉄(東急電鉄の前身)系列の総帥、五島慶太を発起人に加える形でようやく設立にこぎつけた。そのため、五島が経営の主導権を握ることになった。
譲渡された免許区間は内務省告示第56号のうち、3号線の渋谷 - 東京(丸ノ内)間と4号線の新宿 - 築地間[5]であったが、東京高速鉄道は東京横浜電鉄のターミナルがある渋谷からの建設を開始し、1938年(昭和13年)11月18日、青山六丁目駅(現: 表参道駅) - 虎ノ門駅間を開通させた[6](単線並列[7])。この時、資金難からホームの有効長を3両分にするなど、先行する東京地下鉄道や大阪市電気局(現:Osaka Metro御堂筋線)とは違って建設コストを徹底的に削減して建設したため、1950年代に銀座線の一部列車が4・5両化された際にドア締切扱いが発生し、ホームを延伸する工事が行われることとなった。また新宿 - 四谷見附 - 築地間の路線(新宿線)に関しては、工期の短縮を理由として四谷見附 - 赤坂見附間に連絡線を設け、新宿 - 四谷見附 - 赤坂見附間を敷設して当面は渋谷線(渋谷 - 赤坂見附 - 虎ノ門 - 新橋間)への直通を行う形に計画を変更したため、赤坂見附駅は当初より新宿方面への分岐を考慮した上下二層構造とされた。車両の留置は、青山六丁目駅の渋谷寄りに、坑口付近より高架線にかけて行った(A/B線とも、渡り線なし)[7]。
同年の12月20日には、渋谷線の渋谷駅 - 青山六丁目駅間が開業する[8]。この時、青山から渋谷方面へ地形に沿って地下で進むと急勾配が発生し、当時の電車の性能では登坂が不可能と判断されたこと、それに五島率いる東京横浜電鉄との接続を重視したため、当該区間は高架で建設され、東横百貨店(現: 東急百貨店)の3階に乗り入れる形で東京高速鉄道の渋谷駅は設けられた。
東京高速鉄道渋谷線は虎ノ門駅から先は、当面の間新橋駅まで延伸し、東京地下鉄道線(この時点で新橋駅 - 浅草駅間が開業済み)と直通運転することを目論んでいた。しかし早川徳次率いる東京地下鉄道は京浜地下鉄道を設立し、新橋駅から品川駅まで延伸して京浜電気鉄道(現: 京浜急行電鉄)との直通運転を行うことを計画していたことから、両者を同時に乗り入れさせるのはダイヤ的に困難だとして、これを拒否しようとした。その後、監督官庁の鉄道省が調停に入り、1935年(昭和10年)5月に両社が直通運転を行うという内容の協定が結ばれ、翌年には施工工事に関する協定も締結、問題は一段落したかに見えた。
しかしながら、その後も早川率いる東京地下鉄道側に東京高速鉄道への牽制的行動がなされたため、五島は早川との協調姿勢を対決姿勢へと転化し、京浜電気鉄道と東京地下鉄道の株式を押さえて京浜電気鉄道を支配下に置き、さらに東京地下鉄道を東京高速鉄道に合併させようとした。しかし、五島が押さえることのできた東京地下鉄道株式は35%に留まったため、五島派と早川派による経営権の争奪競争に発展。東京地下鉄道の従業員らも合併には猛反対していたこともあり、株主総会が両派それぞれ別の場所で開かれようとする異常事態に陥る。ついには当時の内務省が仲裁に乗り出し、五島・早川の両者が地下鉄事業から手を引くことを条件に調停を行って、議決権の棚上げも決められた。
その後も五島は東京高速鉄道取締役を退かず、東京高速鉄道側から東京地下鉄道に多くの役員を送り込んだため、事実上この競争は早川の敗北となった。またこれは、五島慶太の「強盗慶太」というあだ名を広めるひとつの要因ともなった。東京地下鉄道と東京高速鉄道の社員は相互に激しい対抗心を持つことになり、後に両社が帝都高速度交通営団(営団地下鉄)として統合される際には人心の融和が最大の課題と目されたが、戦時体制のもとで「お国のために」という意識が強かったことなどもあり、実際には拍子抜けするほど何事も起こらなかったという[9]。
1939年(昭和14年)1月15日、東京高速鉄道は虎ノ門駅から新橋駅への延伸を果たす[10]。しかし東京地下鉄道側は直通の準備ができていないことを理由に自社駅への乗り入れを拒否したため、東京高速鉄道は独自に建設していた折り返しホームを利用していた[注釈 3]。これにより1月15日の延伸から二社の新橋駅が壁を隔てて対峙することになったが、東京地下鉄道の駅への乗り入れが1939年(昭和14年)9月16日に実現してこの状態は8か月間で解消された、というのが定説となっていたが、枝久保達也は『戦時下の地下鉄』において、直通運転の実施は1935年に協定が結ばれており、新橋駅の設計をめぐる議論も1936年(昭和11年)10月までには終結していて、東京地下鉄道側の直通運転実施のための工事は1938年(昭和13年)10月17日までの予定で進められていたのが材料統制や事故発生に伴う工事方法変更によって翌年までずれ込んだだけだとして、東京地下鉄道の乗り入れ拒否説を否定している[11]。
1941年(昭和16年)7月4日、戦時中の交通事業再編・統制を行うための陸上交通事業調整法に基づき、東京地下鉄道と東京高速鉄道は、未成に終わりペーパー会社となっていた京浜地下鉄道とともに、帝都高速度交通営団として統合された。
営団発足後の1942年(昭和17年)6月には、東京高速鉄道が新宿線として計画していた区間のうち四谷見附 - 赤坂見附間の工事が開始されたが、太平洋戦争の戦局悪化に伴い、1944年(昭和19年)6月に建設が中止された。戦後、地下鉄計画は都市復興も兼ねて見直しが行われ、この区間は1959年(昭和34年)3月に丸ノ内線として開業することとなった。
東京高速鉄道が建設した新橋駅のホームは現存しており、車両留置や資材置き場などに活用されている[注釈 4]。通常は一般の立ち入りは許可されていないものの、テレビ・雑誌などで「幻の駅」として度々紹介され、特別イベントで公開されることがある。なお、営団地下鉄時代にもこの種のイベントは開催された例があり、「幻の駅体験」として旧ホームに入線する列車を設定し、車内からホームを見物する機会が設けられていた。
東京市は市内交通の公営主義を唱えていたのに、東京高速鉄道へ免許を譲渡したことで、当時の鉄道省からの信用を失ってしまい、戦後東京都が営団地下鉄の都営化を主張した時も、東京都だけで地下鉄の建設運営を行うことは不可能と判断され、これも当時の運輸省が阻止した。以後、東京における地下鉄整備は、営団地下鉄と都営地下鉄(東京都交通局)が分担して行うことが方針として定められた。2004年(平成16年)4月1日に営団地下鉄が再編によって東京地下鉄(東京メトロ)となった現在でも、原則としてそれは引き継がれている。東京の地下鉄運営団体が2つ存在するのは、このような経緯によるものである。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.