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日本のラジオ深夜番組 ウィキペディアから
中島みゆきのオールナイトニッポン(なかじまみゆきのオールナイトニッポン)は、ニッポン放送の深夜番組「オールナイトニッポン」の月曜1部で1979年4月2日~1987年3月30日まで放送されていたラジオ番組。
歌唱で見せる凛とした印象とは180度違う、軽快で明るい語り口が好評だった。内容や登場人物のキャラクターによって声の質を変えながらはがきを読んでいた[1]。そして番組中に読んで気に入ったはがきは中島自ら自宅へ持ち帰っていたという[1]。
放送前の中島のイメージはそれまでの楽曲が影響して、素の彼女を知らない一般人からは「暗い人」と思われていた。このため初期の頃は同番組を聞いたリスナーたちから「これがあの中島みゆきか?」と驚かれた[1]。それまでの歌唱時に見せる表情とは正反対の「ガハハ」と笑う中島の意外な一面、お茶目でありながら温かい語りにリスナーたちは魅了された。また、このキャラクターがリスナーにウケたことで、歌手・中島みゆきにとって新たなファン層の獲得にも繋がったという[1]。
その後ラジオの深夜放送の黄金期と呼ばれる1980年代でも、当番組はニッポン放送の看板番組の一つとなった[1]。中島がオールナイトニッポンを担当した8年間は、終了当時のオールナイトニッポンとしては歴代3位にあたり、女性パーソナリティでは「松任谷由実のオールナイトニッポン」、「AKB48のオールナイトニッポン」に次いで歴代3位。
本作放送前の1978年の秋、中島は大阪MBSラジオの『MBSミュージックマガジン』金曜日のパーソナリティを担当していた。それを当時ニッポン放送制作部に所属していた亀渕昭信が聴き、その語り口と歌とのギャップに感銘を受けたことが当番組への起用のきっかけとされている[2][3]。亀渕は「中島に直接会って依頼した」と回顧しているが、中島自身はそのことを憶えていないという[3]。
ちなみに、中島は自身の著書『伝われ、愛 -月曜のスタジオから-』において、前任者の松山千春から電話によって依頼されたと記述している[注釈 1]。なお、『ミュージックマガジン』の構成担当であった寺崎要を、当番組でも構成に起用している[4]。
第1回の1979年4月2日の放送は、当時放映していたTBSドラマ「たとえば、愛」の登場人物である九条冬子の語りと、三橋美智也の「達者でナ」の一節で始まった[5]。一曲目は甲斐バンドの「東京の一夜」。ちなみにこの放送において中島は、松山千春について「臨月のため北海道に戻っておりますので、いい子を産んでいただきたい」といじったトークをしていた[6]。
ペンネームを読む際は、リスナーの希望でエコーをかける事が通例となっており、「○○エコー希望」と称し様々な種類のエコーがかけられた。3通に1通の割合で「エコー希望」と書かれていた統計があったという[7]。番組内で中島がリスナーのハガキの住所が書かれた表面から本題が書かれた裏面を読むためひっくり返す時、その音をわざとマイクの前で起こしていた[注釈 2]。
毎回最後に読むハガキとエンディング曲は、中島自身がかなり吟味して選んでいたという。一部のスタッフからは、「番組のエンディングをきれいにまとめるのはみゆきさんの美学」とも言われていた[1]。ディレクターには事前に中島が選んだエンディング曲を伝えられ、毎回曲の長さを計算に入れて本番に臨んだ。本番では中島が最後のハガキを読み終える直前にスタッフが曲のイントロを流し始め、曲の終了からきっかり3秒後に午前3時の時報が鳴るようにしていたという[1]。
放送期間中に一度だけ、中島が最後のハガキで悩みを相談してきたリスナーの名前だけ紹介して内容を読まなかったことがあるという[1]。その時中島は、「あなたのお悩みは私には大きすぎて簡単にはお答えできません」とだけ言った。中島は手紙を出してくれたリスナーに安易な助言をせず、正直な自分の気持ちを伝えたという[注釈 3]。
スケジュールの都合などで中島の公演先から当番組の生放送を行ったこともある。例として1981年1月6日はSTVラジオ、1984年3月26日に南海放送、1985年6月2日はラジオ沖縄、1986年4月4日はKBCラジオのそれぞれから、またその他数回地方局から放送を行った[8]。
1986年の全国コンサートツアー中に沖縄での録音放送になった時には、この年の4月まで本番組の直後の月曜2部パーソナリティだった上柳昌彦もADの役割で、月曜の夜に沖縄から東京のニッポン放送に帰って録音テープを届けるなど収録の手伝いに行ったことがあった[1]。
また1985年8月12日は公演のため、この日は録音放送の予定だったが、この日日本航空123便墜落事故が発生し、中島側もこの日の放送をどうするか対応に追われたが、報道特別番組に切り替わったため、録音した放送はお蔵入りになった[9]。これを含め、8年の放送期間中に番組が休みになったのは2回だけだった[1]。この日は2部は通常通り生放送だったために局内にいた上柳がそのまま4時間担当して搭乗者の名前などを読み上げた。
番組終了を発表したのは1987年2月23日。「自分は器用ではない」として、音楽とラジオ両方をやり続けるのは難しく今後は音楽活動に専念したいという理由だった[1]。同年3月30日深夜最終回の中で「いくつものことをてきぱき話せない。24時間という限られた時間を音楽に費やしたいと思った」など番組終了の理由を説明した[1]。
そしてこの日は番組終了の約20分前という早めの時間にエンディングの提供クレジットが読み上げられ、残りを最後のフリートークの時間として割かれた[10]。「中島みゆきは、今夜でディスクジョッキーを中退します。これからもずっと、あなたの望んでいる通りになってとは祈れないけれども、あなたにとって一番幸せな方へ行くように祈っています。“幸”せと言う字は、“辛”いと言う字の上についているちょっぴりの点を“十”に変えると“幸”せになるんです。十分辛くて、初めて人は幸せになるんです。くじけないで頑張って下さい。じゃ、今から数えて10秒後に、私は音楽に走ります。10、9、8、7、6、5、4、3、2、1…。こんばんは、中島みゆきです。」と言うラストメッセージ[11]と、ラストナンバー『白鳥の歌が聴こえる』(アルバム『36.5℃』収録、流れたのはミックス違いのanother Mix version)で終了した。
当日、ニッポン放送局舎前には1000人を超すリスナーが全国から集まり、リスナーたちもラストナンバーを合唱して番組を見送った。番組終了後には中島が玄関前に立ってリスナーにあいさつ[12]、そして局の玄関から敷かれたレッドカーペットの上を手を振りながら静々と歩いて出迎えのリムジンに乗車し局を後にした[1]。そして、裏番組『渡辺美里のスーパーギャング』(TBSラジオ)もこの時、敬意を表しエールを送る形で中島の曲『時代』を流した[12]。
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1991年10月14日に「オールナイトニッポン」25周年記念の一環として、特別に復活放送が行われた(他にも、タモリ、ビートたけし、笑福亭鶴光など)。
2006年12月15日には「オールナイトニッポン」40周年を記念し、15年ぶりに放送が行われた。この時は上柳(当時は平仮名の「うえやなぎまさひこ」名義)がパートナーとしてスタジオに入った。中島は2年前まで上柳と『中島みゆき ほのぼのしちゃうのね』に出演していたが、ライブドアによるニッポン放送買収騒動が勃発した際に中島が同局への出演を拒否したために、2005年以後ニッポン放送への出演が途絶えていた。
コーナーへの投稿は、アルバム『ララバイSINGER』に封入された専用はがきのみで受け付けられたが、約1万通の投稿が寄せられた。
オールナイトニッポンのジングルはレギュラー末期の1987年当時のものが使用された。
2013年2月23日27時-28時にオールナイトニッポン45時間スペシャルの一環として放送され、番組内で、重大発表が行われ、2013年4月から月1回日曜日27時-29時に「中島みゆきのオールナイトニッポン月イチ」としてレギュラーが復活することになり、第1回は4月14日に放送[31][32]。なお、リスナーからのコーナー投稿(真夜中の告白・真夜中のつや話)は葉書で行われた[33]。
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