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日本の登山家、実業家 (1982-2018) ウィキペディアから
栗城 史多(くりき のぶかず、1982年6月9日 - 2018年5月21日)は、日本の登山家[2]。実業家として個人事務所の株式会社たお代表取締役を務めた。北海道瀬棚郡今金町出身[3]。北海道檜山北高等学校[4] を経て札幌国際大学人文社会学部社会学科を卒業[5]。よしもとクリエイティブ・エージェンシーと2011年9月から業務提携した[6][7]。
「冒険の共有」をテーマに全国で講演活動を行いながら、年に1、2回ヒマラヤ地域で「単独無酸素」を標榜して高所登山を行っていた[注 1]。エベレストには、頂上からのインターネット生中継[注 2] を掲げ、2009年にチベット側、2010年と2011年にネパール側から挑んだが、8,000mに達することが出来ず敗退[注 3]。2012年に西稜ルートから4度目の挑戦をするも強風により敗退。この時に受傷した凍傷により、のちに右手親指以外の指9本を第二関節まで切断。2015年の5度目、2016年6度目、2017年7度目のエベレスト登山も敗退した。2018年5月に8度目となるエベレスト登山を敢行したが、途中で体調を崩して登頂を断念し、8連敗を喫した直後の5月21日にキャンプ3から下山中に滑落死した[8][9]。35歳没。
「元ニート」「元引きこもり」を自称しているが[10]、これはあくまでキャラクター作りのための設定であり、実際にはそのどちらでもない[注 4][12]。「元ニート」を名乗るようになったきっかけは、栗城の全国デビューとなる企画に、『電波少年』で知られる日本テレビプロデューサーの土屋敏男が「ニートのアルピニスト、初めてのヒマラヤ」というタイトルをつけたためである[13]。
登山界では、栗城は実力の伴わない登山家だと見なされていた。例えば服部文祥は栗城の実力を「3.5流」とテレビ番組で評した[40][41] ほか、「栗城さんの実力と、掲げる目標の乖離は、度を超しすぎている」[38]「両手の指9本の第2関節から先を失ってしまって(中略)エベレストの南西壁という絶壁を登ることなど、わざわざ命を捨てに行くようなもの」[39] という評価もあった。
登山ライターの森山憲一は、2017年に「野球にたとえてみれば、栗城さんは大学野球レベルというのが、正しい評価なのではないか」[41]「このまま栗城さんが北壁や西稜にトライを続けて、ルート核心部の8000m以上に本当に突っ込んでしまったら、99.999%死にます」[42] と警告する記事を執筆し、栗城本人とも面会したが、説得には失敗したという[43]。
生前の栗城に対しては、登山界では「栗城には登頂するつもりが無いのではないか」という憶測もあった[43]。例えば、登山専門誌『ROCK&SNOW』(山と渓谷社)の編集長(当時)・萩原浩司は、2010年の取材で「彼の体力・技術・経験は十分とは言えず、山への甘さを感じて危険だ。引き返すことが前提のトライにも見える」と苦言を呈している[44]。しかし先述の森山は、栗城の死後、様々な関係者に話を聞いた結論として「栗城さんは本気で登れると考えていたようです」「端から見たら嘘に見えても、本人は嘘をついているつもりはなかった。できるものだと信じ込んでいた」「それに周りの人間が勝手に惑わされたり、騙されたりしちゃった」[43] という見解を述べている。
栗城はその登山活動において「日本人初となる世界七大陸最高峰の単独無酸素登頂に挑戦している」との文言をマスコミ向けに使用しており[12][45]、全てのヒマラヤ遠征でも「単独無酸素」を標榜していた。
世界七大陸最高峰において、通常酸素ボンベを使用する必要があるとされるのは、そもそも標高8000メートルを越えるエベレストのみであり、その他の六大陸の最高峰においては元々、酸素ボンベを必要としていない[46]。栗城は結局エベレストの登頂には成功しなかった。なお、日本人の無酸素でのエベレスト登頂は1983年の川村晴一らによって達成されて以降、2010年までに7名が成功している他、世界的には初の無酸素登頂が成された1978年から1995年までに、延べ70名の登山者によって達成されている(下山中の死亡者を含む)。
また、登山における「単独登頂」については明確な定義が無く、登山者間の相互評価に任されている現状にあるが、過去の著名な登山家たちは、単独登頂の評価を得るため、自らの行動に厳密なルールを課している。1995年5月13日にエベレスト無酸素・単独登頂に成功したイギリス人女性のアリソン・ハーグリーブス(Alison Hargreaves)は、固定ロープを使用しないことは勿論、他の隊から勧められた紅茶すら断っている。栗城は自らを単独登山者(ソロ・アルピニストと呼称)としているが、エベレスト以前に成功した他の六大陸最高峰登頂の段階から他者の設置した固定ロープを使用している[47] 他、プロフィール記載の実績のほとんどが他の登山客で溢れ必然的に先行者が雪を踏み固めたトレースを辿ることとなるハイシーズンのノーマルルートで為されたものである(マッキンリーでの植村直己の遭難は条件が大きく異なる厳冬期である)。更に栗城は、登山に際して現地人ガイド帯同が義務付けられているキリマンジャロにおいても単独登頂を達成したとしている。
登山の専門誌『山と渓谷』は、2012年3月号で栗城の「単独無酸素」を「その言葉に値しない」と否定した。
2012年5月に日本人初となる8,000m峰全14座(うち11座は無酸素)に登頂した竹内洋岳は、2008年に自らの公式ブログにて、「単独無酸素」の表現を用いながら栗城が紹介されているクライミングウェアの広告に対し、「彼(栗城)自身の目標に向かう姿は素晴らしい」としながらも、「なぜ彼は『単独』『無酸素』という言葉をこうも安易に使ってしまうのだろうか?(中略)恐らく、この栗城さん自身は『単独』とか『無酸素』とかの意味をそこまで深くは考えていなかったのかもね。(中略)たぶん、彼の周りにいる大人がなにか『美味しい都合』で、いろいろ脚色したんじゃないかな? よくわからない一般の人々を、だまそうとしてるみたいな広告…」と評している[48]。
一般的に登山界で言われる「単独登頂」とは、登山の行程の全てを一人で行い、初登頂者のベースキャンプを基準にしてベースキャンプより上で他者からのサポートを一切受けず、あらかじめ設営されたキャンプ、固定ロープ、ハシゴ等も使わずに登ること(アルパインスタイル)を指す[注 6]。栗城の言う「単独登頂」とは、ベースキャンプから自らの荷物を全て背負い登頂することのみを指すため[49]、アルピニズムの見地から評価される「単独登頂」とは異なる。栗城は他の登山隊が設置した固定ロープ等を使って登頂している。またヒマラヤ登山の際には、栗城隊と呼ぶ大規模なサポート隊を編成し[50]、シェルパが固定ロープ設置などのルート工作やキャンプ設営を行い、無線により気象情報や行動計画などのサポートを受けて登っている(極地法と呼ばれる)。なお栗城は、キリマンジャロやエベレストなどで過去に数回、自力下山が困難になり、シェルパやポーターに救助されている[51][52][53][54]。2015年のエベレストに際しては、ヒマラヤにおける栗城のサポートを行っているボチボチトレック社のティカ・ラム・グルンは「C2まで6人のサポートが随伴した」と発言している[55]。
また最後のエベレストへの「単独無酸素」アタックとなった2018年5月、本人の死亡を伝えるThe Himalayan Timesの速報[1] において、シェルパ4人が同行していた旨が記載されている。
「酸素ボンベ」を使用しないで登ることを、高所登山の世界では単に「無酸素」と呼ぶ[注 7]。 栗城の登山では、1つ下のキャンプにシェルパのサポート隊が酸素ボンベを用意して待機しており、いざというときは酸素ボンベを持って救助に行ける体制になっている。栗城は2010年のエベレストで7900mのサウスコルに到達できず撤退。下山途中にインターネットによる生中継で「前日に体調が悪かったため、シェルパがC3に上げた酸素を吸った」と公言[56]。生中継中にも酸素ボンベを使用した[56]。
栗城の著書『一歩を越える勇気』で[要ページ番号]、「わらしべ登山家は毎日、各界で活躍する人たちに会いに行っている。」と記している。わらしべとはわらしべ長者を意味する。通常、エベレスト登頂のためには、入山料、渡航費用、シェルパを含むスタッフなどの多くの費用が必要となる。このため、金なし・コネなしの若い登山家が登頂を実現するためには、スポンサーの資金協力が必須となる。登山活動以外に、日本全国で講演活動を行い登山活動資金を集めていた。また、自ら多くの企業のトップの人たちと面談を行い、協力のための営業活動を行っていた。2010年のエベレスト挑戦の際には、複数のスポンサー協力を実現している。河野啓はこの営業力こそが栗城の特筆点であり、また、狂わせてしまった点であったと批評している[57]。
栗城のいう「冒険の共有」は、挑戦における失敗と挫折の共有を意味し、それを共有することで「否定」という壁に向かっている人や、見えない山を登るすべての人の支えとなるとともに、人生という山登りを楽しめる人を増すことだという。栗城がこうした考えを持つにいたった背景には、大学3年時にマッキンリー単独登頂を目指した際に、周囲から起こったのは、応援ではなく否定の声ばかりであったため、一人で山にいる時よりも深い孤独感にさいなまれた経験が影響していたと自述している。このとき、唯一肯定的な言葉をかけたのは、栗城の父で、出発直前の空港で、電話で一言「信じてるよ」という言葉をかけられたことで一歩踏み出すことができ、今の自分がいると公式ウェブサイトで語っていた[58][59]。
2009年のエベレスト登頂生中継では、ギネスに挑戦と題して『(世界一高いところで)流しそうめん』・『(同)カラオケ』企画が設けられた(ギネス申請は危険すぎるという理由で却下された)[57]。河野啓は質よりスケール感に酔ってしまった代表例として本企画を挙げている。
「冒険の共有」をテーマに一年の半分ほど全国で講演活動を行っていた。講演スタイルは栗城単独と他者とのコラボによる講演会に分けられる。単独開催では小中学校、高校、各種団体企業から招かれての講演と栗城の熱烈な個人ファンが組織した実行委員会主催などが多かった。他者とのコラボでは山崎拓巳、中村文昭、てんつくマン(軌保博光)、大嶋啓介、等と共演をしていた。主催は共演各氏の熱烈な支持者が組織した実行委員会が多く、(株)日本成功学会が母体の3%の会なども主催、後援していた。
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