筑後国(ちくごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属し、現在の福岡県の南部に属する。7世紀末までに成立した。
明治維新直前の領域は、現在の福岡県内の下記の区域(筑後地方)に相当する。
筑紫国(つくしのくに)の分割によって、筑前国とともに7世紀末までに成立した[1]。
戦国時代は、筑後の守護は大友氏であり、その勢力下にあったが、実際に筑後を支配し統括したのは筑後十五城と呼ばれた大名分の国人領主たちであり、筑後南部(下筑後地域)は蒲池氏、田尻氏、黒木氏が、筑後北部(上筑後地域)その他は星野氏、草野氏、問註所氏その他の大身が割拠した。
江戸時代は、筑後北部は有馬氏(摂津有馬氏)の久留米藩、筑後南部のうち柳川市やみやま市など大半は立花氏の柳河藩、大牟田市は柳河藩と親類関係にある三池藩であった。
近世以降の沿革
- 「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での国内の支配は以下の通り(789村・536,851石2斗5升)。太字は当該郡内に藩庁が所在。国名のあるものは飛地領。
- 三潴郡(164村・140,241石余) - 久留米藩、柳河藩
- 山門郡(115村・77,948石余) - 柳河藩
- 三池郡(72村・53,125石余) - 幕府領(柳河藩預地)、柳河藩、陸奥下手渡藩[注釈 2]
- 下妻郡(37村・29,920石余) - 久留米藩、柳河藩
- 上妻郡(115村・79,464石余) - 久留米藩、柳河藩
- 生葉郡(59村・26,882石余) - 久留米藩
- 竹野郡(89村・22,875石余) - 久留米藩
- 山本郡(30村・16,559石余) - 久留米藩
- 御井郡(72村・56,528石余) - 久留米藩
- 御原郡(36村・33,304石余) - 久留米藩
- 慶応4年
- 明治元年9月27日(1868年11月11日) - 下手渡藩が三池郡に藩庁を移転して三池藩となる。
- 明治4年
- 明治9年(1876年)8月21日 - 第2次府県統合により福岡県の管轄となる。
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国府
国府は御井郡(三井郡)に存在した。国府の位置は、江戸時代に久留米藩の学者である矢野一貞によって、三井郡合川村に推定された。1961年(昭和36年)に、九州大学考古学研究室によって初めて阿弥陀遺跡の発掘調査が行われ、瓦や礎石列・築地跡か見つかったことから、国庁の存在が確実になった。その後の発掘調査で、国庁は1期から4期と御井郡内を転々としたことが判明している。
- I期国庁
- 古宮・田代遺跡。7世紀後半に造営された。深い溝を設けるなど軍事的な色彩が濃い。
- II期国庁
- 8世紀半ばに阿弥陀遺跡へ移転。礎石を有し、工房や国司館を備えている。藤原純友の乱によって破壊。
- III期国庁
- 10世紀前半に朝妻遺跡へ移転。大宰府政庁(Ⅲ期)よりさらに大規模な平面プランをもっていた。
- IV期国庁
- 11世紀後半に横道遺跡へ移転された。以降、文献上には12世紀後半まで記述が残る。
1996年(平成8年)に、「筑後国府跡」として国の史跡に指定されている。現在、阿弥陀遺跡に石柱と解説パネルがある。また、横道遺跡は久留米市立南筑高等学校校内にあたり、当時の建物の柱列が復元されている。
国分寺・国分尼寺
尼寺跡は未詳であるが、僧寺跡の北方約200メートルの西村地区の地に推定される。
神社
延喜式内社
- 『延喜式神名帳』には、大社2座2社・小社2座2社の計4座4社が記載されている(「筑後国の式内社一覧」参照)。大社2社は以下に示すもので、いずれも名神大社である。
- 三井郡 高良玉垂命神社
- 三井郡 豊比咩神社 - 久留米市内に論社が複数社ある。
- 比定論社:高良大社 (久留米市御井町)
- 比定論社:豊姫神社 (久留米市上津町)
- 比定論社:豊姫神社 (久留米市北野町大城)
総社・一宮
- 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧[3]。
二宮以下はない[3]。
安国寺利生塔
- 安国寺 - 福岡県久留米市山川神代。
- 利生塔 - 今は廃寺の淨土寺(福岡県大川市酒見)内に設置。
郡
10郡(延喜式)
- 御原郡(みはらぐん)
- 生葉郡(いくはぐん)
- 竹野郡(たけのぐん)
- 山本郡(やまもとぐん)
- 御井郡(みいぐん)
- 三瀦郡(三潴郡)(みづまぐん)
- 陽咩/八女郡(やめぐん)・・・延喜式までに上妻郡と下妻郡に分割。
- 上妻郡(かふづまぐん)
- 下妻郡(しもつまぐん)
- 山門郡(やまとぐん)
- 三毛郡(三池郡)(みけぐん)
国司
筑後守
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけては筑前守および筑後守を同様に扱われた。
- 713年 - ? - 道首名(※初代筑後権守)
- 886年 - ? - 高丘宿禰五常(※筑後介)
- 970年前後 - 平維将(※筑前肥後守)
- 972年 - 975年? - 平惟仲(※筑後権守)
- 975年 - 977年? - 平親信(※筑後権守)
- ? - ? 平範季
- 1000年? - ? - 藤原広業(※筑後権守)
- 1017年? - 1019年? - 高階成章(※筑後権守)
- 1159年前後 - ? - 平家貞 父は平範季。
- 1160年? - ? - 平貞能 父は平家貞。
- ? - 1180年前後? - 波多野遠義(※筑後権守)
- 1180年前後? - ? - 橘遠茂(※筑後権守) - 平家家人
- 1186年 - ? - 藤原俊兼(※筑後権守)
- 1191年前後? - ? - 源仲頼 - 若宮社歌合に参加
- 1274年前後? - ? 草野教員(※筑後権守)
- 1274年前後? - ? 大友頼泰(※筑後権守)
- 1350年代? - ? - 阿蘇惟澄(※筑後権守)
- ? - ? - 蒲池治久(※筑後守)
守護
鎌倉幕府
- 1206年 - 1213年 - 大友能直
- 1241年 - 1272年 - 北条時章
- 1272年 - 1277年 - 大友頼泰
- 1277年 - 1281年 - 北条宗政
- 1286年 - 1288年 - 少弐盛経
- 1295年 - ? - 宇都宮通房
- 1305年 - 1315年 - 宇都宮頼房
- ? - 1333年 - 北条氏
戦国時代
戦国大名
- 蒲池氏:大友氏の下で柳川城を本城とし、筑後筆頭大名と言われた。大友氏没落後、龍造寺隆信に敗れ、大名としては滅亡。その他の国衆は、筑後十五城を参照。
- 大友氏:豊後を本拠とし、筑後守護も兼ねる。筑後においては龍造寺氏との戦いに敗れ衰退。
- 龍造寺隆信:本拠は肥前。1581年蒲池氏を滅ぼしたが、隆信は1584年に沖田畷の戦いで戦死、肥前に後退した。
豊臣政権の領主
- 小早川隆景・秀秋:筑前・筑後・肥前1郡37万1300石(名島城)、1587年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、備前岡山藩51万石に移封)
- 小早川秀包:久留米13万石、1587年 - 1600年(関ヶ原の戦いの後、改易)
- 立花宗茂:柳河13万2千石、1587年 - 1600年(関ヶ原の戦いの後、改易)
- 筑紫広門:山下1万8千石、1587年 - 1600年(関ヶ原の戦いの後、改易)
注釈
別称「筑州」は、筑前国とあわせて、または単独での呼称。
出典
『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)pp. 586-587。
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