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日本の政治家 ウィキペディアから
藤川 政人(ふじかわ まさひと、1960年7月8日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の参議院議員(3期)、参議院政府開発援助等及び沖縄・北方問題に関する特別委員長。
愛知県丹羽郡扶桑町出身(現住所は扶桑町柏森中切)[2][3]。愛知県立丹羽高等学校卒業。1983年(昭和58年)、南山大学経営学部卒業。同年、扶桑町役場に入り、教育委員会社会教育課に勤務[1]。文化事業の仕事に主に携わった。
1998年(平成10年)12月、扶桑町長の澤田正夫が町長選の3選出馬を表明。丹羽郡選挙区(定数1名)の愛知県議会議員は扶桑町と大口町の町長経験者が交代で務める不文律が公然の事実として続いていたが[4]、藤川は澤田の3選出馬表明を受け、翌年4月の県議選への出馬の意志を固める。
しかし1999年(平成11年)1月の臨時議会で一転、澤田は県議選への鞍替えを表明した。18人の町議の支援を得て選挙戦に臨むつもりであったが、ほとんどの町議は澤田の鞍替え表明を聞くや否や一夜のうち離れてしまったという。藤川のもとに残った町議は当時長老と呼ばれた5人だけであった[5]。自民党はどちらにも肩入れせず両候補者の「支持」を決定したため[6]、同年4月の県議選・丹羽郡選挙区は藤川と澤田の無所属同士の一騎打ちとなった。藤川には自民党愛知10区支部長の鈴木雅博[7]がつき、澤田には現職県議の大竹喜久雄がついた[8]。4月11日、藤川が大差で初当選。自民党は選挙直後に藤川を追加公認した[9]。
2007年(平成19年)に3期目の当選。県議時代に自民党愛知県議員団政調会長、自民党愛知県連政調会長、自民党愛知県連青年局長、自民党愛知県青年議員連盟幹事長などを歴任[2]。
2009年(平成21年)6月、自民党県連は翌年の参院選に向け、愛知県選挙区現職の浅野勝人の公認を党本部に申請。ところが同年8月の衆院選大敗を受け、党本部は県連に公認の再申請を指示[10]。2009年(平成21年)12月14日、自民党愛知県義団は県議団総会を開き、藤川の擁立を決定した。2010年(平成22年)1月19日、自民党愛知県連も藤川に一本化する方針を決めた[11]。再選出馬に強い意欲を示していた浅野も、1月21日についに立候補辞退を表明した[12]。藤川は6月16日に県議を辞職[13]。7月11日の第22回参議院議員通常選挙で91万8,187票を得て初当選。当選後、麻生派に入会した[要出典]。
2011年(平成23年)2月13日、自民党県連会長の鈴木政二が、知事選敗戦の責任をとり会長辞任を表明[14]。後任の県連会長には、知事選で勝利した大村秀章と親しい県議の寺西学が就任した。同年4月の県議選に寺西は出馬せず、地盤を息子の寺西睦に地盤を譲った。任期は前会長の残り任期が切れる7月までとされていたが、現執行部を中心に「続投」支持の声が上がった。それに対し鈴木前会長ら旧執行部は寺西が4月に県議を引退したことを問題視。「議員でもないのに県連トップはおかしい」として、藤川を擁立した。県連は33年ぶりの会長選挙戦に突入する事態となる。ところが6月27日、寺西は立候補を取り下げる意向を固め、7月14日の県連党大会で藤川が無投票で会長に就任した[15]。
2016年(平成28年)の参院選から愛知県選挙区は改選数が「3」から「4」に増える。自民党は藤川のみを立て、民進党は現職の斎藤嘉隆と新人の伊藤孝恵の2人を擁立した。得票数1位で再選[16]。
2022年(令和4年)1月4日、記者会見を開き、自民党愛知県連の次期会長選(1月22日実施)に立候補しないと表明した[17]。1月5日、愛知6区選出の丹羽秀樹が立候補を届け出、他に立候補の届け出がなかったため、次期会長に内定した[18]。
同年7月の第26回参議院議員通常選挙で、得票数1位で3選[19]。
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