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東京都千代田区の町名 ウィキペディアから
霞が関(かすみがせき)は、東京都千代田区の町名。各中央省庁の庁舎が所在し、隣接する永田町・隼町とともに日本の首都機能を担っている。日本を代表する官公庁街として知られ、「霞ヶ関」は省庁やそこに勤める官僚の代名詞ともなっている。現行行政地名は霞が関一丁目から霞が関三丁目。郵便番号は100-0013[2]。
なお、住所は「霞が関」であるが、最寄りの地下鉄駅は『霞ケ関駅』と文字表記が異なっている。
旧麹町区に当たる麹町地域内である。皇居の南に位置し、日比谷公園が東に接する。地域的には、東が内幸町(日比谷)、南が港区虎ノ門、西が国会議事堂や首相官邸などが立地する永田町となる。永田町は海抜20m前後の高台で、日比谷は海抜1m前後の低地であるため、西から東に向かって緩やかに傾斜している。
中世から東国の名所として広く知られており、1364年(貞治3年)の『新拾遺和歌集』にも「徒らに名をのみとめてあづま路の霞の関も春ぞくれぬる」として詠まれている[4]が、これが現在の千代田区霞が関にあたるかどうかについては異論もあり、具体的には新宿区霞岳町、狭山市下広瀬、多摩市関戸などが候補として挙がっている。
江戸時代には大名屋敷が建ち並ぶ地域であった。江戸城本丸に近いにもかかわらず、上杉家や浅野家などの外様大名の屋敷もある[5]点が丸の内との違いである。明治時代になり、福岡藩屋敷に外務省が置かれたことをきっかけに、井上馨外務大臣を中心として「官庁集中計画」が持ち上がりドイツから建築家を招いて大規模な都市計画が立てられた。しかし大審院と司法省が完成した時点で予算不足のため計画は大幅に縮小された。その後、大手町から内務省と大蔵省が移転するなど、少しずつ中央官庁街の体裁が整っていった。
戦後は米軍の業務、住宅施設が存在していた時期もあったが、1951年に施行された官庁営繕法(現・官公庁施設の建設等に関する法律、昭和26年法律第181号)に基づいて官庁営繕審議会及び首都建設委員会において検討が進められ、都内に分散していた官公庁施設を霞が関周辺に集積する「中央官衙地区整備に関する計画」が公告され、霞が関を官庁街とする方針が固まる[6]。1954年(昭和29年)には戦後初めての本格的耐火建築物として農林省霞ヶ関合同庁舎(現・中央合同庁舎第1号館)が完成。1958年(昭和33年)2月23日には東京都が霞が関と永田町を「東京都市計画一団地 霞が関団地」として都市計画決定。1967年4月1日に住居表示が実施され[7]、一部が永田町に編入された。翌1968年に日本初の超高層オフィスビルである霞が関ビルディングが完成している。
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