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イタリアのユーロビジョン・ソング・コンテスト

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イタリアのユーロビジョン・ソング・コンテスト
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イタリアのユーロビジョン・ソング・コンテストでは、イタリアにおけるユーロビジョン・ソング・コンテストについて述べる。

概要 イタリアItaly Italie, 加盟放送局 ...
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歴史

要約
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イル・ヴォーロウィーンでの2015年大会にて。
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フランチェスコ・ガッバーニキーウでの2017年大会にて。

イタリアは1956年大会から1997年大会までの間、頻繁にユーロビジョン大会に参加していた。イタリアは、第1回のユーロビジョンに参加していた7箇国のうちのひとつである。1997年以降、イタリアは不参加を続けていた。

2010年大会で欧州放送連合は、イタリアや、同様に2008年から不参加を続けていたオーストリアの復帰のために努力する旨を表明したものの、両国の復帰を実現することはできなかった。しかし、2010年12月、イタリアは2011年大会に参加することが公式に確定し、イタリアは13年におよぶ不参加に終止符をうち、大会に復帰することとなった。

ユーロビジョン・ソング・コンテスト1974での検閲

イタリアは、1974年大会のRAIでの放送を拒否した。これは、ジリオラ・チンクェッティによる楽曲がこの年のイタリアの離婚に関する国民投票と時期的に一致したことによる。国民投票は大会の1箇月以上後であり、チンクェッティは2位入賞を果たしたものの、イタリアはこの大会とチンクェッティの楽曲の放映を拒絶した。これは、チンクェッティによるイタリアの参加曲の曲名が「」(Yes)と題され、歌詞でもこれが繰り返されるため、国民投票で賛成票を投じさせるサブリミナル効果をもたらすプロパガンダとなる危険性をRAIが危惧したことによる(国民投票では、離婚を認める法の廃止の可否を問うものであった)。この楽曲はその後1箇月以上にわたってイタリアでは放送禁止が続いた。

不参加

イタリアは過去に何度かにわたってユーロビジョンへの不参加を繰り返している。最初の不参加は1981年大会でのことであり、このときイタリア放送協会(RAI)は自国における大会への興味がなくなっているとした[1]。この不参加は1982年大会でも続けられ、1983年大会に復帰した。

1986年大会でもRAIは不参加を決定し、再び大会を欠場した。

RAIは大会参加への意欲に欠けるとして、1994年大会から1996年大会まで再度の不参加となった。1997年大会には参加したものの、その後は理由を表明することなく大会から離脱した。

新たな参加

2008年、Vince Temperaと、かつてのユーロビジョン優勝者トト・クトゥーニョは、イタリアのユーロビジョン不参加への遺憾を表明し、大会への復帰を求めた[2][3]

2008年大会の優勝者ジーマ・ビラーンをはじめとする2008年大会参加者たちが、Rai Unoで放送されRaffaella Carràが司会を務めるイタリアのショー番組Carràmba che fortunaに参加した。これが、イタリアのユーロビジョンへの復帰を願ってのCarrà主導によるものなのかは明らかではないが、ユーロビジョン・ソング・コンテストのManager Communications & PRであるSietse Bakkerは、「現在もイタリアの大会参加はとても歓迎すべきことだ」と述べた[4][5][6]

2010年12月2日、イタリアが2011年大会への参加申請を行ったことが公式に発表された。同年12月31日、最終的な参加国が確定され、イタリアのユーロビジョン参加が決定した。これによりイタリアは、1997年以来、14年ぶりに大会に復帰することとなった。

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3
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出場曲を決定したが不参加
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主催

脚注

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