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オジー・ギーエン
ベネズエラの野球選手、監督 (1964 - ) ウィキペディアから
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オズワルド・ホセ・ギーエン・バリオス(Oswald "Ozzie" José Guillén Barrios, 1964年1月20日 - )は、ベネズエラ出身の元プロ野球選手(内野手)、プロ野球監督。
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経歴
現役時代は1985年から1997年までシカゴ・ホワイトソックス、1998年にボルチモア・オリオールズ、1998年途中から1999年にアトランタ・ブレーブス、2000年にタンパベイ・デビルレイズに所属し、遊撃手として活躍。1985年に MLB(メジャーリーグ)とスポーツ・イラストレイティッド選出の新人王を同時受賞。1990年にゴールドグラブ賞を受賞、1988年、1990年、1991年にオールスター出場。1990年に日米野球で来日もした。
現役引退後は2003年にフロリダ・マーリンズの三塁コーチを務め、世界一を経験。翌2004年のシーズンよりジェリー・マニエルの後任としてシカゴ・ホワイトソックスの監督に就任。かつての地元の英雄の凱旋ということで、同シーズンの開幕試合ではコミスキー・パークにてスタンディング・オベーションによる歓迎を受ける。
2005年にはそれまでの長打に頼ったチームカラーを変え、シーズン中はスコット・ポドセドニックや井口資仁らに犠打や盗塁等のサインを出す細かい野球で臨み、ポストシーズンも勝ち進んでワールドシリーズを制した。なお、ベネズエラ人としてはメジャーリーグ史上初の監督である。
2006年にはオールスターのアメリカンリーグ監督を務め、ロベルト・クレメンテを讃えるセレモニーでは、コミッショナーのバド・セリグがクレメンテの偉業を賞賛すると、ベンチで涙を拭っていた。
2007年は主力打者の故障や不振が相次ぎ、満足の行く成績を上げられなかった。「ラインナップを書いていると涙が出てくるぜ、このメンバーなら俺でも出られる」と嘆いた。
2010年のドラフトで、外野手である息子オズニーがホワイトソックスから22巡目(全体668番目)で指名された。
2011年シーズン終了後にシカゴ・ホワイトソックス監督を退任し、2012年シーズンからマイアミ・マーリンズの監督に就任することが発表された。2012年10月23日、チームの成績低迷の責任を取らされる形で解任された[2]。
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選手としての特徴
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人物
ギーエンは失言・放言でも有名で、2005年の8月にニューヨーク・ヤンキースとの試合前に旧友と会った際、レポーターが取り囲む中旧友を『ホモ(homosexual)』、『幼児虐待者(child molester)』と呼び物議をかもした他、2006年には『ルーキーピッチャーのショーン・トレーシーは(テキサス・レンジャーズとの試合で)報復のデッドボールを投げなかったから、マイナーに送られた』とギーエンの選手の取り扱いを批判したシカゴ・サンタイムズの記者ジェイ・マリオッティに対し、やはりレポーターの囲む中『ホモ(fag)』、『俺のケツでもなめやがれ(kiss my f**king ass)』など放送禁止用語でこき下ろし、コミッショナーから厳重注意と罰金を受けている。
2011年4月27日の試合では球審に抗議を行い退場処分となった後、試合が行われている最中にTwitterで「不当な退場」と表現したり、球審を「荒っぽい男」などと侮辱する書き込みを行い、これがメジャーリーグで禁止されている試合中の外部への情報発信にあたるとして2試合の出場停止処分を受た[3]。この規定には2011年より導入されており、初の適用となった[4]。
2012年のTIME誌で、キューバのフィデル・カストロ前議長を称賛するような発言をして、亡命キューバ人の多い地元からの反発を憂慮した球団により、4月11日から5試合出場停止処分が下された。
詳細情報
要約
視点
年度別打撃成績
年度別監督成績
太字はプレイオフ進出(ワイルドカードを含む)。
表彰
記録
- MLBオールスターゲーム選出:3回(1988年、1990年、1991年)
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出典
関連項目
外部リンク
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