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ジム・タイロン
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ジェームズ・バーノン・タイロン(James Vernon "Jim" Tyrone , 1949年1月29日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州出身の元プロ野球選手(外野手)。
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経歴
テキサス州アリス市生まれで、地元のレンジャー高校からテキサス大学パンアメリカン校に進学[1]。ブロンクスに所属し、1971年に進出したメンズ・カレッジ・ワールドシリーズ (NCAA Division I Baseball Championship) に兄弟そろって参加し、チームはベスト4まで残った。
1971年のMLBドラフト7巡目でシカゴ・カブスに指名され契約。1972年、メジャー初昇格。1977年にオークランド・アスレチックスでメジャー再昇格。本職は外野手だが、三塁手、遊撃手も務めるという便利屋的な起用でメジャーでプレーした。
1979年、この年から発足したインター・アメリカン・リーグ(IAL)のマイアミ・アミーゴスに入団。60試合に出場して226打数81安打、打率.358を記録した[1]。だがIALは広域移動による経費増、各州間での興行に対する姿勢の違いなどにより、7月14日限りで解散となってしまう[1]。この時、西武ライオンズの中村芳夫渉外担当と毒島正一スカウトが、翌1980年に獲得を検討する外国人選手の候補者リストの作成のためアメリカを訪問しており、タイロンもそのリストの中に入れていた。ところが2人はIALが解散するという情報を入手すると、急遽タイロンと交渉し、獲得にこぎつけた[1]。だが、リスト入りは成績のみに依拠していたため、西武は誰一人として実際のタイロンのプレーを見ずに獲得したのだった[1]。
こうして1979年後期、西武ライオンズに入団。これにより成績不振のトニー・ミューサーは解雇となった[1]。来日2年目の1980年に1番打者として35本塁打を放つも、テリー・ウィットフィールドの加入を受けて1981年開幕直前に名取和彦との交換トレードで南海ホークスに移籍。1981年こそ安定した打撃成績と12失策ながらも20補殺という強肩ぶりをアピールしたが、1982年は打撃3部門で成績を落とし、守備も不安材料として懸念されたため同年限りで解雇され、帰国した。
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詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
背番号
- 27 (1972年、1974年 - 1975年)
- 26 (1977年)
- 1 (1979年 - 1980年)
- 42 (1981年 - 1982年)
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出典
関連項目
外部リンク
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