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毒島章一

日本のプロ野球選手、コーチ、解説者 (1936-2023) ウィキペディアから

毒島章一
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毒島 章一(ぶすじま しょういち、1936年昭和11年〉1月14日 - 2023年令和5年〉5月14日)は、群馬県桐生市出身のプロ野球選手外野手)・コーチ解説者戸籍上の登録は「毒嶌」。

概要 基本情報, 国籍 ...

ミスターフライヤーズ」と称された。

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経歴

要約
視点

プロ入り前

桐生高校では1951年夏の甲子園に控え投手として出場するが、1回戦で西山和良のいた県和歌山商に敗退[1]。2年上のチームメートに一塁手の中静唯八(西鉄)がいた。

1953年夏の甲子園予選では北関東大会1回戦に進むが、宇都宮商に日没コールド負け。高校ではノーヒットノーランを達成したこともあるが、肘を痛めてしまう。また左打者になったのも高校時代である。

現役時代

1954年東映フライヤーズへ入団。同年の開幕直後は三塁手として出場するが、すぐに外野手に回り5月にはレギュラーを獲得、48試合に四番打者として起用された。翌1955年は初めて規定打席(8位、打率.298)に到達する。

1957年には打率.307(ベストテン3位)を記録、初めてベストナインに選出される。外野守備にも定評があり、同年は15補殺を記録した。

1958年にも打率.306で中西太に次ぐベストテン2位に入る。

1962年のリーグ初優勝に貢献、阪神タイガース日本シリーズで降し日本一に輝く。同シリーズでは全試合に先発するが、29打数3安打1打点と真価を発揮できなかった。

1963年は6月に故障、萩原千秋にポジションを譲る。しかし翌1964年には復活し、1966年には打率.298(リーグ4位)の好成績を残す。1969年にコーチ兼任となる。

1971年には肩の故障が悪化し、通算2000安打達成まであと23本というところであったが試合に出場することはなかった(偵察メンバーとして4試合だけスタメンに名を連ねた)。田宮謙次郎監督の「2000本安打は達成したも同然。」という声もあり、同年限りで現役引退。

外野手の間を抜く巧打が特徴の選手で、リーグの三塁打王を4回獲得、『三塁打の毒島』と呼ばれた。通算でも福本豊に次ぐ106三塁打の記録を持っている。1957年6月23日サイクル安打を達成。

1968年は通算100本塁打を記録したが、これは2009年広島石井琢朗に更新されるまで出場試合数では最スロー記録だった(プロ在籍年数では石井琢およびヤクルト八重樫幸雄の21年目)。東映フライヤーズ一筋18年、『ミスターフライヤーズ』の称号を得る。

当時のチームは張本勲土橋正幸山本八郎安藤順三ジャック・ラドラ大杉勝男白仁天大下剛史尾崎行雄など荒くれ揃いの中、その温厚な性格と人柄により、永きに渡りフライヤーズの主将を務めた。

引退後

引退後は東映→日拓で二軍打撃コーチ(1972年 - 1973年)、太平洋→クラウン→西武で二軍打撃コーチ(1980年 - 1982年)・一軍総合コーチ(1986年 - 1987年, 1995年)・スカウト(1978年 - 1979年, 1983年 - 1985年, 1988年 - 1993年)を歴任。

ライオンズには高校の1年後輩の浦田直治がいた関係で移籍し[2]、西武スカウト時代には「球界の寝技師」の異名を持つ根本陸夫監督の腹心として、森繁和巨人に決まりかけていた松沼博久雅之兄弟を逆転で獲得するなど手腕を発揮。黄金時代を裏から築き上げた。

1998年からはCS放送J SPORTSの解説者を務めていた。

2023年5月14日午後9時35分、前立腺がんのため、東京都武蔵野市の病院で死去[3]87歳没

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人物

落語が好きで[4]寄席によく通っていたという[5]

詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

記録

節目の記録
  • 1000試合出場:1962年4月19日 ※史上68人目
その他の記録

背番号

  • 33 (1954年 - 1971年)
  • 72 (1972年 - 1973年)
  • 77 (1980年 - 1981年)
  • 87 (1982年)
  • 82 (1986年 - 1987年)
  • 71 (1995年)

脚注

関連項目

外部リンク

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