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ダン・グラッデン

アメリカの野球選手 (1957 - ) ウィキペディアから

ダン・グラッデン
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クリントン・ダニエル・グラッデンClinton Daniel "Dan" Gladden1957年7月7日 - )はアメリカ合衆国カリフォルニア州出身の元プロ野球選手(外野手)。

概要 基本情報, 国籍 ...
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来歴・人物

1979年サンフランシスコ・ジャイアンツに入団。5年目の1983年に大リーグデビュー。俊足巧打の1番打者として活躍した。1987年ミネソタ・ツインズへ移籍、1987年と1991年のツインズのワールドシリーズ制覇に貢献したが、1992年デトロイト・タイガースへ移籍。

1993年11月15日、読売ジャイアンツに入団。三拍子揃った選手との触れ込みで、センターを守る予定であったが、肩力、走力共に全盛期より衰えており春季キャンプやオープン戦でまずい守備を連発したためレフトを多く守らせることとなり、前年までレフトを守っていた松井秀喜が開幕直前の4月2日から急遽ライトにコンバートされることとなった。また通算222盗塁から期待されたが盗塁数は2に終わった。プロレスラーのハルク・ホーガンを思わせる風貌で気性が荒く、後述の乱闘も含めて1年間に2度の退場処分を受けている。シーズン中は1番打者として定着し、98試合で15本のホームランを打つなど長打力を見せた。巨人のリーグ優勝、日本一に貢献したものの同年11月10日に自由契約となり現役を引退。

1995年ツインズのスカウトに就任。1996年コロラド・ロッキーズのスカウトを務め、1999年にはツインズの巡回コーチに就任。現在はミネソタ州でツインズのWCCOラジオ野球解説者を務めている。

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乱闘騒ぎ

1994年5月11日神宮球場でのヤクルト戦で7回表、ヤクルト、西村龍次の投球が頭部をかすめ、倒れこんでかわしたものの、グラッデンは叫びながらマウンドへ歩き、西村に詰め寄ろうとしたが、制止した中西親志捕手にキャッチャーマスクの上から中西を殴りつけ、中西も激昂してグラッデンの顔面をキャッチャーミットで殴ったり振り払う等応戦。さらにグラッデンも中西がアッパーカットで倒れた所を容赦なく襲いかかったりと本塁上で激しい殴り合いに発展したことで、両軍がベンチから飛び出して大乱闘となった。結果的にグラッデンと中西は暴力行為、西村は危険投球でそれぞれ退場処分を受けた。この乱闘でグラッデンは左手小指と右手親指を骨折、中西は顔面骨折と左目打撲の重傷を負った。(その後、グラッデンは制裁金10万円と10日間の出場停止処分を受けた)

伏線は2回表に西村が巨人の村田真一の頭部に死球を与え負傷退場へと追いやり、続いて3回裏、今度は巨人の木田優夫が打席に立った西村の左腰付近に死球を与えていた(この際、ヤクルトの野村克也監督が「報復死球ではないか」と球審に抗議)。なおこの試合の翌日には西村、木田、グラッデンの3人はセントラル・リーグから事情聴取を受けている。また、この試合以降危険球制度が導入された。

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エピソード

  • 野球解説者に転身後、巨人時代チームメイトだった松井秀喜ニューヨーク・ヤンキースに入団、日本のテレビ局からインタビューを求められたが、チームメイトで主力選手だったにもかかわらず「彼のことはよく覚えてないね」とコメントした。しかし、松井がメジャーで活躍すると、「私が巨人にいて彼がチームメイトだった時、彼はまだ幼かった。でも現在は見違えるほど成長している。大したものだ。」と褒めていた。
  • 1987年のワールドシリーズでは、満塁本塁打を打っている。
  • ツインズ時代の1988年1989年に1試合・1イニングずつ、(敗戦処理として)投手としての登板歴もある。通算2試合登板、2イニングを投げて防御率は4.50。相手のインディアンスドック・エドワーズ監督から、「カーブでストライクを取っているから、大したもんだよ」と褒められるほどであった。被安打2、四球1、奪三振0。また、1988年には二塁と三塁も1試合ずつ守っているが、いずれも守備機会はなかった。

詳細情報

年度別打撃成績

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年度別投手成績

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記録

NPB

背番号

  • 25 (1983年 - 1984年)
  • 32 (1984年 - 1994年)
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関連項目

外部リンク

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