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トッド・ジール
アメリカの野球選手 (1965 - ) ウィキペディアから
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トッド・エドワード・ジール(Todd Edward Zeile, 1965年9月9日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ヴァン・ナイズ出身の元プロ野球選手(三塁手、一塁手)。右投右打。
妻はロサンゼルスオリンピック段違い平行棒金メダリストのジュリアン・マクナマラ。
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経歴
要約
視点

メジャーデビューまで
高校卒業時の1983年6月6日にドラフト30巡目でカンザスシティ・ロイヤルズから指名を受けたが契約はせず、UCLAに進学。
3年後の1986年6月2日に、ドラフト2巡目でセントルイス・カージナルスから指名を受けプロ入りする。マイナーでは順調にステップアップをし、毎年二桁本塁打を放つ。
カージナルス・カブス時代
1989年8月18日にカージナルスでメジャーデビューを果たす。この年は28試合に出場し、打率.256を記録。8月20日にはメジャー初本塁打も放った。
1990年は、捕手を中心に144試合に出場。打率こそ.244止まりだったが、15本塁打を放つなど持ち前のパワーを発揮。 しかし守備面では失策7、パスボール10、盗塁阻止率.316と大きな課題を残した。
1991年は、監督のジョー・トーリが守備面でジールより優れている、後のゴールドグラブ賞受賞者であるトム・パグノッツィを捕手で起用することを決め、ジールは打力を生かすために三塁手へコンバートする[2]。本塁打こそ減ったが打率.280、更に17盗塁を記録するなど、前年から飛躍した年となった。
1992年は、打撃三部門での成績が軒並みダウンしたが、四球を68個選び、出塁率.352を記録するなど少なからず収穫のあった年となった。
1993年は開幕から打点を荒稼ぎし、自身初の100打点以上を記録。
MLBストライキのあった翌1994年は、出場試合数が113試合だったにもかかわらず19本塁打を放った。
1995年は、34試合の出場で打率.291、5本塁打、22打点と好調を維持していたが、6月16日に通算141勝を記録しているマイク・モーガン投手とマイナー2選手との交換で、金銭と共にシカゴ・カブスに放出された。カブスでは79試合に出場したものの、打率.227と振るわなかった。
フィリーズ・オリオールズ時代
1995年オフにFAとなっていたが、12月22日にフィラデルフィア・フィリーズと契約した。
1996年フィリーズでは134試合に出場し自身初の20本塁打を記録。しかし、8月29日に後日交換選手とのトレードでピート・インカビリア外野手と共にボルチモア・オリオールズへと移籍する。フィリーズは9月4日に後日交換選手としてカルビン・マドゥロとギャレット・スティーブンソンを獲得した。オリオールズ移籍後は不調で、打率は.239止まりだった。
ドジャース・マーリンズ・レンジャーズ時代
1996年10月27日に自身2度目のFAとなる。同年の12月8日にロサンゼルス・ドジャースと契約を結んだ。
移籍元年となる1997年は、久々に1つのチームでフルシーズンプレイし、自身初の30本塁打をクリアした。
1998年も打率は平凡ながら、40試合で7本塁打を放つなどまずまずの出だしだった。しかし5月14日にマニュエル・バリオス投手、ボビー・ボニーヤ三塁手、ジム・アイゼンライク外野手、チャールズ・ジョンソン捕手、ゲイリー・シェフィールド外野手の計5選手とのトレードで、マイク・ピアッツァ捕手と共にフロリダ・マーリンズに移籍する事になった。マーリンズ移籍後は打率.291と好調だったジールだが、7月31日にマイナー2選手との交換でテキサス・レンジャーズにトレードされた。この年2度目の移籍にもかかわらず、移籍後は調子をくずす事無くまずまずの成績を残している。
1999年は、レンジャーズでフルシーズンプレイし、打率.293、24本塁打、98打点という素晴らしい成績を残した。
メッツ・ロッキーズ時代

(2001年9月19日)
1999年10月28日にFAとなったジールは、12月11日にニューヨーク・メッツと契約。三塁にはロビン・ベンチュラがいたため、メッツでは一塁を守った。
2000年は22本塁打を記録したが、翌2001年10本塁打と低調な成績に終わった。ジールにとって2年連続で同じチームでフルシーズンプレイしたのは、メジャーデビューを果たしたカージナルス以来の事だった。
2002年は、1月21日の大型三角トレードによってベニー・アグバヤニ外野手と金銭と共にコロラド・ロッキーズに移籍した。メッツは更にミルウォーキー・ブルワーズへグレンドン・ラッシュ投手とレニー・ハリス三塁手を譲渡。ロッキーズはクレイグ・ハウス投手とロス・グロード一塁手をメッツに放出。更にロッキーズはアレックス・オチョア外野手をブルワーズに放出。そしてブルワーズはメッツにジェフ・ダミーコ投手、ジェロミー・バーニッツ外野手、ルー・コーリアー遊撃手、マーク・スウィーニー一塁手、そして金銭を譲渡した。ロッキーズでは、18本塁打、87打点を記録した。
ヤンキース時代から引退まで
2002年10月28日にFAとなり、12月11日にニューヨーク・ヤンキースと契約した。ヤンキースでは66試合に出場したが打率.210と不調であったため、8月18日にヤンキースから戦力外通告を受け、8月20日にモントリオール・エクスポズ(現在のワシントン・ナショナルズ)と契約。34試合に出場し、まずまずの成績を残した。
2003年10月26日にFAとなったジールは、2004年2月8日にメッツと契約。2004年はメッツで137試合に出場したが打率.233と、満足のいく成績は残せなかった。この年は14年ぶりに2試合ではあるが捕手としても出場した[2]。2004年11月1日にFAとなり、そのまま引退した。
現役引退後
引退後は映画の制作会社を設立し、プロデューサー兼俳優として関わっている[1]。また2017年からスポーツネット・ニューヨークでニューヨーク・メッツの専属アナリストとして活動している[3]。
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選手としての特徴
年間100打点と年間30本塁打を一度ずつ達成している。走塁面ではあまり足の速い選手ではないが、最高で17盗塁を記録したことがある。
守備面では捕手としては前述の通りであるが、三塁手転向後も1993年の33失策など安定しておらず、平均以下の評価であった[4]。
2002年と2004年に、投手として1試合ずつ登板したことがある。2002年には1回を投げて三振を1つ奪っているが、2004年は1回で5失点した。
詳細情報
年度別打撃成績
年度別投手成績
年度別守備成績
- 各年度の太字はリーグ最高
獲得タイトル・表彰・記録
- USAトゥデイ・マイナーリーグ年間最優秀選手賞:1989年
背番号
- 58 (1989年 - 同年途中)
- 27 (1989年途中 - 1996年途中、1997年 - 1998年途中、1998年途中 - 1999年、2003年 - 同年途中、2004年)
- 14 (1996年途中 - 同年)
- 25 (1998年途中 - 同年途中)
- 9 (2000年 - 2001年)
- 7 (2002年、2003年途中 - 同年)
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脚注
外部リンク
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