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ジョー・トーリ
イタリア系アメリカ人の野球選手、監督 (1940 - ) ウィキペディアから
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ジョゼフ・ポール・トーリ(Joseph Paul Torre , 1940年7月18日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク市ブルックリン区出身の元プロ野球選手・監督。
兄のフランク・トーリも元メジャーリーガー。
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経歴
要約
視点
選手時代
ニューヨーク州ブルックリンで生まれ育つ。1960年にアマチュアフリーエージェントでミルウォーキー・ブレーブス(現在のアトランタ・ブレーブス)へ入団。同年9月25日にMLBデビューする。捕手であったが、一塁手も務めた。1963年から1967年まで5年連続でオールスターに選出され、1965年にはゴールドグラブ賞を受賞。
1969年の開幕前に元MVPのオーランド・セペダと交換でセントルイス・カージナルスに移籍。カージナルス時代は名捕手ティム・マッカーバーとその後継者であるテッド・シモンズが在籍していたため、主に一塁手として活躍。1970年にはマッカーヴァーがフィラデルフィア・フィリーズにトレードされたため捕手に戻るが、1971年にはシモンズの成長により、三塁手に転向する。
1971年に選手としての絶頂期を迎える。137打点と打率.363を記録し、ナショナルリーグの二冠王に輝く。同年にはシーズン最多安打、最高塁打も記録し、最優秀選手に選出される。カージナルス時代の1970年から1973年まで4年連続でオールスター出場を果たす。1974年のシーズン後にニューヨーク・メッツにトレードされ、トレード後直ぐの日米親善野球で選手として来日(その後、2004年にMLB開幕戦で監督として再来日)した[1]。1977年に現役を引退。選手生活18年間の通算成績は打率.297、252本塁打、1185打点、2342安打である。
監督就任~3度の解雇
1977年途中にメッツの監督に就任。就任した当初は選手兼任監督という立場で、たまに代打として出場することもあった。1981年のシーズン終了までメッツの監督を務めるが、プレーオフ出場は成らなかった。
1982年からはアトランタ・ブレーブスの監督に就任し、1年目にブレーブスにとって1969年以来の西部地区優勝を果たすが、2年目の1983年には地区2位、1984年には3位に陥落する。
1985年から数年間テレビ解説者として活躍した後、1990年にセントルイス・カージナルスの監督として現場復帰を果たす。しかしプレーオフ進出を果たすことなく、1995年のシーズン中に監督として3度目の解雇を経験する。
名将トーリ
1995年11月2日にニューヨーク・ヤンキースの監督に就任する。監督としてのキャリア初期のトーリの評価は決して高いものではなく、それを象徴する出来事としてニューヨーク・デイリーニューズは"Clueless Joe"(訳の分かっていない、トンチンカンなジョー)とまで酷評した[2]。しかし翌1996年にヤンキースを18年ぶりにワールドシリーズに導き、さらに1998年から2000年にかけてワールドシリーズ3連覇を達成。長らく低迷していたヤンキースの復活を実現する。トーリが監督に就任した時のチームの顔は、横暴なオーナーであるジョージ・スタインブレナーだったが、トーリがその座に取って代わった[3]。
2003年には読売ジャイアンツから松井秀喜が移籍し、日本でもよく知られる監督となる。
2007年6月7日のシカゴ・ホワイトソックス戦ではMLB史上10人目の監督通算2000勝を達成し、MLB史上初めて「選手として2000本安打、監督として2000勝」を達成した人物となった。なお、この記録は後にギネス世界記録に認定されている[4]。
ヤンキース監督時代の12年間すべてでポストシーズン進出を果たした(地区優勝10回、ワイルドカード獲得2回)が、その最後の年となる2007年はディビジョンシリーズで敗退。同年オフ、球団は1年500万ドルにプレーオフで勝ち抜く度に100万ドルが加算され、ワールドシリーズへ進出すれば2009年は800万ドルで契約延長という条件を提示[5]。トーリはこの出来高を含む契約を「侮辱」と受け、契約を固辞[3]。10月18日にニューヨーク・ヤンキース監督を退任することを球団フロントに通知した[5]。これによってヤンキースは周囲から激しい批判を受けたが、その多くはファンからだった[3]。なお、ヤンキースの後任監督にはジョー・ジラルディが10月30日に就任した。
ドジャース監督就任
それから約半月後11月1日にロサンゼルス・ドジャースから監督オファーを受け、3年契約年俸総額1300万ドルで合意した[6]。なお、ドジャースはトーリの学生時代まで地元ブルックリンを本拠地としており、トーリ自身昔から大ファンであったという。就任初年度の2008年は、若手やベテランを上手く駆使しながら見事に地区優勝を果たした。2年目の2009年も前半から快進撃を見せ、31年ぶりの地区優勝連覇を果たした。
2010年9月17日、シーズン終了後に監督を退任することが発表された。後任の監督はヤンキース時代からのコーチとしてトーリに仕えてきたドン・マッティングリーが就任した。
監督退任後
2011年2月、MLB機構副会長に就任。2012年1月4日、副会長を辞任し、ドジャースの買収を目指すグループに参加。3月23日にMLB機構副会長に復帰。
さらに6月15日、WBCアメリカ代表監督に就任した。しかし、アメリカ代表は2次ラウンドで敗退した。

ニューヨーク・ヤンキースの永久欠番に2014年指定。
2014年、ベテランズ委員会による選出でアメリカ野球殿堂入りを果たし、殿堂入りのプレートはヤンキースの帽子を選んだ。これを記念して古巣ヤンキースはトーリ在籍時の背番号『6』を永久欠番に指定し、監督としてはケーシー・ステンゲル(『37』)とビリー・マーチン(『1』)以来3人目の欠番指定者となり、同年5月8日に欠番表彰式が行われた。
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選手としての特徴
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人物
ニューヨーク・ヤンキースの監督だったことで知られるが、幼いころからナ・リーグ贔屓でニューヨーク・ジャイアンツとウィリー・メイズを応援し、ヤンキースは大嫌いだったと述べており、ヤンキースタジアムで初めてワールドシリーズを観戦したのは1956年10月8日のヤンキース対ブルックリン・ドジャースの第5戦で、大嫌いなヤンキースが負けることを願って生まれ故郷のチームであるドジャースを応援していたものの、この試合でヤンキースのドン・ラーセンがワールドシリーズ史上初の完全試合を達成。観ているうちに新たな歴史が刻まれるのではないかと期待し、達成された時は小躍りした。後に1999年7月18日にはドン・ラーセンがヤンキースタジアムで始球式を行い、その試合ではデビッド・コーンがモントリオール・エクスポズを相手に完全試合を達成しているが、この時のヤンキースの監督をつとめていたのはジョー・トーリであった。「大嫌いだったヤンキースの監督をつとめるとは、人生とはなんと皮肉なものだろう」とスコット・ピトニアック著の「ヤンキースタジアム物語」の序文で述べている[9]
詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別守備成績
- 捕手守備
- 内野守備
- 外野守備
- 各年度の太字はリーグ最高
- 各年度の太字年はゴールドグラブ賞受賞
年度別監督成績
- 各年度の太字年は最優秀監督賞受賞
- 順位の太字はプレーオフ進出(ワイルドカードを含む)
- a 50日間に及ぶストライキによりシーズンが前後期に二分された。
- b 232日間に及ぶ長期ストライキによりシーズンが中断したため、順位は暫定。
- c 解任時の順位
タイトル
表彰
記録
背番号
- 15(1960年 - 1968年)
- 9(1969年 - 1977年)
- 2(1974年日米野球)[10]
- 6(1996年 - 2010年)※ニューヨーク・ヤンキースの永久欠番
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著書
- 『覇者の条件―組織を成功に導く12のグラウンド・ルール』 Joe Torre's Ground Rules for Winners: 12 Keys to Managing Team Players, Tough Bosses, Setbacks, and Success
- 共著・2003年4月発売。
- 『ジョーからの贈りもの―若きサムライとの日々』
- 共著・2005年10月発売。日本に向けて書かれた作品。
- 『さらばヤンキース―我が監督時代』 The Yankee Years
- 2009年3月発売。ヤンキース退団後の作品。
脚注
関連項目
外部リンク
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