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ペドロ・フェリシアーノ

プエルトリコの野球選手 (1976 - 2021) ウィキペディアから

ペドロ・フェリシアーノ
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ペドロ・フアン・フェリシアーノ・モリーナPedro Juan Feliciano Molina, 1976年8月25日 - 2021年11月8日)は、プエルトリコリオ・ピエドラス英語版出身の元プロ野球選手投手)。

概要 基本情報, 国籍 ...

ニューヨーク・メッツの選手としてはジョン・フランコに次ぐ、球団2位となる484試合登板の記録を持つ[1]

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経歴

要約
視点

プロ入りとマイナー時代

1995年MLBドラフト31巡目(全体863位)でロサンゼルス・ドジャースから指名され、入団。最初の4年間はルーキーリーグやA級で投げていたが、1999年は肩痛に苦しみ、シーズンを棒に振る。

2000年からはAA級・AAA級での登板もあった。

2001年10月15日にFAとなり、11月19日にシンシナティ・レッズと契約した。

メッツ時代

2002年8月15日にショーン・エステスとのトレードで、ブレイディ・クラーク英語版と金銭と共にニューヨーク・メッツへ移籍した。9月4日にメジャーリーグ初登板を果たす。オフの10月11日にウェイバー公示を経てデトロイト・タイガースへ移籍した。12月16日に放出された。

2003年4月3日にメッツと契約したが、以降2年間はAAA級ノーフォーク・タイズでの登板が主になり、メジャーに定着するまでは行かなかった。

ソフトバンク時代

2005年1月24日に福岡ソフトバンクホークスに入団。入団当初は制球に難があり、開幕一軍はならなかったが、二軍でのフォーム改善により制球が安定、その後一軍に上がってきてからは左のリリーバーとして活躍したものの、シーズン中盤以降は負け試合での登板やワンポイントリリーフがほとんどで、当初期待された活躍はできず、オフに戦力外通告を受け解雇された。もっとも、WHIPは1.16と非常に優秀な数字を残していた。

メッツ復帰

2006年2月28日にメッツに復帰。シーズン開幕前の3月には第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)プエルトリコ代表に選出された。シーズンではは主に中継ぎとして活躍し、同年の地区優勝に貢献。

2007年も中継ぎとして活躍し、同年の地区2位に貢献した。

2008年は86試合に登板し、両リーグ最多登板を記録した。

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ニューヨーク・メッツでの現役時代
(2009年5月31日)

2009年はシーズン開幕前の3月に第2回WBCプエルトリコ代表に選出され、2大会連続2度目の選出を果たした。シーズンでは88試合に登板し、2年連続で両リーグ最多登板を記録した。

2010年は92試合に登板し、3年連続で両リーグ最多登板を記録した。オフの11月1日にFAとなった。

ヤンキース時代

2011年1月3日に球団が2013年の選択権を持つ2年契約総額800万ドルでニューヨーク・ヤンキースへ移籍した。しかし、肩痛を再発させ、同年は登板することは無かった。

2012年も登板することは無かった。結局、ヤンキースでは2年間で登板することもなく、オフの11月3日にFAとなった。

ヤンキース退団後

2013年1月21日に古巣・メッツとマイナー契約を結んだ[2]。この年に遺伝性の心臓病が発覚[1]。以降、悩まされることになる[1]

オフの10月31日にFAとなった。

2014年5月25日にセントルイス・カージナルスとマイナー契約を結んだ[3]

2015年2月4日にシカゴ・カブスとマイナー契約を結んだ。

死去

2021年11月8日に死去[1][4]45歳没。死因は長年患っていた遺伝性の心臓病であった[1]。前日に家族とジェットスキーに興じており、その翌日の就寝中に死亡しているところを発見されたという[5]

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詳細情報

年度別投手成績

さらに見る 年 度, 球 団 ...
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

NPB

背番号

  • 55(2002年 - 2004年、2013年)
  • 28(2005年)
  • 25(2006年 - 2010年)

代表歴

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脚注

関連項目

外部リンク

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