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マイク・マシーニー
アメリカの野球選手、監督 (1970 - ) ウィキペディアから
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マイケル・スコット・マシーニー(Michael Scott Matheny, 1970年9月22日 - )はアメリカ合衆国オハイオ州コロンバス出身の元プロ野球選手(捕手)、監督。右投右打。
経験に裏打ちされた巧みなリードとゴールドグラブ賞を4回受賞した堅実な守備と強肩に定評があった。
端正な顔立ちでもあり、ハンサムな監督としても名高い[1]。
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経歴
要約
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プロ入り前
地元オハイオ州のレイノルズバーグ高等学校を卒業後、ミシガン大学に進学。1年次の1988年のMLBドラフト31巡目(全体810位)でトロント・ブルージェイズから指名されたものの、入団には至らなかった。
プロ入りとブルワーズ時代
大学4年次の1991年のMLBドラフト8巡目(全体208位)でミルウォーキー・ブルワーズから指名され、プロ入り。契約後、傘下のパイオニアリーグのルーキー級ヘレナ・ブルワーズでプロデビュー。1992年にA+級ストックトン・ポーツ、1993年にAA級エルパソ・ディアブロスと順調に昇格し、1994年4月7日にメジャーデビューした。1995年は正捕手のジョー・オリバーとほぼ併用となった。1996年からは正捕手として活躍した。
ブルージェイズ時代
1999年にはブルージェイズで、ダリン・フレッチャーの控えとして出場した。
カージナルス時代

(2004年8月7日)
1999年12月15日にセントルイス・カージナルスにへ移籍した。2001年にはわずか4票差でゴールドグラブ賞の受賞を逃した。2002年から2004年まで252試合(1565守備機会)連続無失策のMLB歴代最多記録保持者である。盗塁阻止率は2000年に52.7%(ヘンリー・ブランコに次ぐリーグ2位)、2001年に48.3%(ジェイソン・ラルーに次ぐリーグ2位)と好成績を記録。2000年には自身最高の打率.261を記録。2003年には規定打席到達に迫る自身最多の498打席で出塁率が自身最高の.320を記録。
ジャイアンツ時代

(2005年8月20日)
2004年12月13日にサンフランシスコ・ジャイアンツと3年契約を結んだ。2005年にはいずれも自身最高の34二塁打、13本塁打、OPS.701を記録。2006年5月31日の試合中にファウルチップがキャッチャーマスクに直撃し、脳しんとうを起こした。
引退
監督時代
2011年11月14日、ワールドシリーズ優勝後に勇退した古巣カージナルスのトニー・ラルーサの後任として2012年より監督に就任した。
2015年、就任から4年連続ポストシーズン進出を果たしたMLB史上初の監督となった[2]。
2018年7月14日、ジョン・メイブリー打撃コーチ、ビル・ミラー打撃コーチ補佐と共に解任された[3]。47勝46敗で地区首位から7.5ゲーム差の3位だった。全7シーズンで勝率5割以上だったものの、最優秀監督賞を受賞することはなかった。
カージナルスの監督解任後はカンザスシティ・ロイヤルズの球団アドバイザーを務めた。2020年シーズンからはロイヤルズの監督を務める[4]。2022年、3シーズン連続負け越しの責任を取り解任された。
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詳細情報
年度別打撃成績
年度別守備成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- 各年度の太字年はゴールドグラブ賞受賞
年度別監督成績
表彰
記録
- シーズン守備率10割:(2003年、捕手として100試合以上出場した選手としては史上3人目)※バディ・ローザル(1946年)、チャールズ・ジョンソン(1997年)に次ぐ
- 連続無失策試合数:252(2002年 - 2004年、捕手として歴代最長)
- 監督就任から4年連続ポストシーズン進出(史上初)
背番号
- 15(1994年 - 1994年途中)
- 22(1994年 - 1999年、2000年途中 - 2006年、2012年 - 2018年、2020年 - 2022年)
- 44(2000年 - 2000年途中)
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脚注
関連項目
外部リンク
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