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ローマ皇帝一覧

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ローマ皇帝一覧
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ローマ皇帝一覧(ローマこうていいちらん)では、現代において一般に古代ローマ帝国の正統な君主とみなされている皇帝を網羅する。

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帝政ローマの最大版図
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テトラルキア
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西ローマ帝国(茶)と東ローマ帝国(紫)

解説

要約
視点

ローマ皇帝という名称は幾分、現代的な用法であって必ずしも当時の人間がその様に呼称したものではないし、時代毎に制度上の位置付けも変動している。しかしどうあれ、アウグストゥス以降にローマという国家で定着した「個人に専制的な権限を与える習慣」を端的に表現する上で、的確な用語であると多くの場合で見なされている。古代に地中海世界において強大な勢力圏を作り上げたローマは、共和制から君主制へと大きく政治制度の改革を行い、議会政治(「元老院及びローマ市民」)から個人による独裁への転換を事実上容認するようになった。

しかし、こうした体制を確立したアウグストゥスは、元老院(議会)への配慮から共和制を建前上は維持する道を選び、「共和制における独裁」を模索した。従ってアウグストゥスはかつて存在した「ローマ王」や、それに比類する如何なる爵位や君主号を拒否した[1]。その一方で共和制に存在した様々な役職や特権を自らの独占とし、更に元老院を監督する立場にあるプリンケプス・セナートゥスを終身の称号として受け取った。アウグストゥスと共に初期のローマ皇帝とされる人々も一様にこうした方策で独裁体制を築き上げたため、独裁的で血統主義的な要素(アウグストゥスも最後まで親類での権力継承を望んだ)を持ちつつも、議会が一定の力を維持していた。歴史学者達はこれを「プリンキパトゥス(元首政)」と呼び、単なる「専制的な君主制」とは異なるものであると評価している。

元首政は帝政時代の半分を占める300年間ほど維持されたが、セウェルス朝末期の混乱と断絶によって各地の将軍による帝位簒奪と内乱が繰り返される「3世紀の危機(軍人皇帝時代)」が始まり、帝国は急速に荒廃していった。こうした状況下で帝位を獲得したディオクレティアヌスはより強大な君主制が必要と考え、強力な官僚制を作り上げて皇帝が官僚を通じて人民を支配する体制を整備した。また、それまでの実質的な君主号であったプリンケプスに変わり、「我らの主」を意味するドミヌス・ノステルを用いたことから、歴史学者達はディオクレティアヌス以降の帝政を「ドミナートゥス(専制君主制)」と呼称している。

また、ディオクレティアヌスは皇帝権を二分(西方正帝・東方正帝)すると、共同皇帝マクシミアヌスに帝国の西半分の防衛を担当させて帝国の分担統治を開始した。更に副帝もそれぞれ東西ごとに一人ずつ設置(西方副帝・東方副帝)して、それぞれに職務を分担させることで最終的に皇帝権は四つに分割された(テトラルキア制[2]。当初のテトラルキアは職務の分担であって地理的な分割など想定されていなかったが[3]、結果的にはローマ帝国の政治的分裂(西ローマ帝国東ローマ帝国)という結末を招いた。しかし、両地方の宮廷が政治的には独自の行動を取り合うようになった後も、両政権は法律的には一つの国家という立場を維持し続けた。例えば、東西の皇帝は等しく同等の権限を有しており、東西いずれかの皇帝が没した際には残り一方の存命の皇帝が東西の両地域を統治することとされていた[4]

その後、西ローマ帝国では皇帝府は明確に没落し、476年あるいは480年に消滅した。対する東ローマ帝国では皇帝府は軍事的危機を迎えながらも継続され、中世を経て近世にオスマン帝国に滅ぼされるまで存続した[5]。また前述の制度から、西ローマ帝国の皇帝政権消滅後は自動的に東ローマ帝国の皇帝がローマ帝国全土を担当することとなり、法律的にはローマ皇帝権の再統一が果たされたことになる。

上記の複雑な経緯から、どのような条件を満たせば「正当な」皇帝と呼べるのかを設定するのは容易でない。皇帝とは、必要とされたときに相応しいとされた人物が種々の権限を独占した結果として「皇帝になった」ものであって、ローマ法にも皇帝の正当性を決める規則などというものは存在しなかった[6][7][8]

ローマ皇帝の本質の一つは、その断絶性である。制度上、皇帝に与えられた数々の権限は世襲や相続が禁止されており、帝位は個人に与えられる一代限りの特権であった[6]。原則としては、正式なアウグストゥスの称号を授与できるのはローマの元老院だけである[9]。一方で、皇帝は常に多忙であり、状況によっては下位の補助者(カエサル)や同僚(アウグストゥス)に職務を分担させる必要があったため、現職の皇帝による同僚の推薦は概ね尊重され、元老院からも追認された[10]。また、軍事的成功において軍団の兵士達から皇帝と宣言されることもあった[11]。古代において戦勝は神々によってもたらされる恩恵であったので、首都ローマでの凱旋式におけるインペラトルの歓呼は、凱旋将軍が神々によって指名された人物であることを示すものと理解された[11]。すなわち、しばしば「皇帝」とは以下のような判断基準で決められたのである。

  • 元老院から正式にアウグストゥスの称号を授与された者(1)
  • 現職の皇帝から共同統治者あるいは補助者として権限を与えられた者(2)
  • 1にも2にも当てはまらないが、経緯はどうであれ、帝国全土を統治できるだけの権力を掌握した者(3)

例えば、ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌスは当時の皇帝であったクィンティッルスの後継者ではなかったが、蛮族に対する極めて優秀な活躍から軍の実権を掌握して、正当な皇帝として周囲から追認を受けていった。また逆にガリエヌスは最後まで帝国全土を掌握できなかったがウァレリアヌスの共同皇帝ではあったので、多くの場合で正当な皇帝と見なされている。そしてクラウディウス・ゴティクスは帝国全土を掌握できず、また先帝ガリエヌスを殺害して帝位を奪った明確な簒奪者であったが、市民や元老院から熱狂的な支持を受けて皇帝と見なされていた。

複数の皇帝が並び立った場合、四皇帝の年に蜂起した4人の帝位請求者は最後に勝利したティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌス以外の三者もこれらの条件を満たして、それぞれが正当な皇帝とされていた。しかし五皇帝の年に蜂起した5人の帝位請求者はペルティナクスディディウス・ユリアヌス、そして最後に勝利したセプティミウス・セウェルスの三名のみが条件を満たしており、クロディウス・アルビヌスペスケンニウス・ニゲルの二名は正当な皇帝としての条件を最後まで満たせず、僭称帝という立場でセウェルスに敗れている。また「共同皇帝」という複数の皇帝が共同統治を行う制度も存在しているが、しばしば共同皇帝の片方が実権を持たない場合も散見される。

395年以降はローマ帝国の東西の皇帝府が政治的に分裂する時代を迎えることになる。だが政治的にはどうであれ、法律的にはそれぞれがテトラルキア制に基づいた合法的な皇帝(東方正帝と西方正帝)であり、記載する上で特段の問題は存在しない。西ローマ帝国の最後の皇帝とされることのあるロムルス・アウグストゥルスも、「強奪者型」の皇帝として一応は正当であったと判断できる。

以下に示される皇帝一覧は一般的に正式な皇帝として認識されている者を列挙したものであるが、誰を正当な皇帝のリストに含めるかはリストの作成者の主観によるものであり、リストが作成された時代や地域あるいは歴史家ごとに異なっている。

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帝政ローマ前期

ユリウス=クラウディウス朝

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四皇帝の年

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フラウィウス朝

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ネルウァ=アントニヌス朝

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五皇帝の年

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セウェルス朝

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軍人皇帝時代

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帝政ローマ後期

テトラルキア時代

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コンスタンティヌス朝

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ウァレンティニアヌス朝

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テオドシウス朝

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テオドシウス朝断絶後

西方帝位

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東方帝位

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脚注

参考資料

関連項目

外部リンク

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